I
ファドは神秘と、アマリア・ロドリゲスがインタビューで語っていたビデオをみたことがある。
魂の奥深くに心を沈めて、ファドがうまれてくるのを祈って待つ。
ポルトガルはひそやかな国だった。街の看板もひっそりしていて、店を見つけるのが大変。通りの名前もシンプルでセンスのいいプレートが壁にかかっているだけ。
細く続く石だたみの坂道。両側には花や洗たく物でにぎやかに色どられた小窓。昼にはしっかりと閉ざされた飲み屋の重厚な扉。人の気づかいも大げさでなく、相手の心によりそってくれる。
正直でしみじみとした人たち。
レストランのシステムも、きめ細やかで心地よい。
この旅はとにかくファドを聴くことが目的だったので、たくさんの Casa de Fado(食事をしながらファドを聴く店)へ行ってみた。
3〜4人のファディスタ、2〜3人の演奏家が毎晩ファドの世界をくりひろげる。
ほとんどが外国人の客で、ポルトガルでしか味わうことのできない神秘の世界を楽しんでいるはずなのだが、そういうファドを歌うファディスタはほんとうに少ない。次々とあらわれては歌っている若い歌手たちは気楽なものだった。
ポルトガルの人たちは信心深い。
どっしりとして地味にみえる古い教会の中は、めくるめく神秘の世界だった。
生々しく痛々しいキリスト像、哀しく美しいマリア像、横たわる修道女の石像のついた石棺。ろうそくの光。
ファドの世界と重なる。
聖書の中に、「右手で良いことをする時は、左手に知られないようにしなさい」といった意味の言葉があるが、ポルトガルの美しさは秘めやかで、私は心を奪われてしまった。
キリストを愛したふたりの女性がいる。
ひとりは無原罪の聖母処女マリア、もうひとりは娼婦であったマグダラのマリア。このマリアはキリストに救われてから、キリストへの愛だけに生きるようになる。
ファドにも"アヴェ・マリア・ファディスタ"と"マリア・マグダレーナ"というふたつの歌がある。
娼婦ややくざが歌っていたファドを、アマリア・ロドリゲスが人類の歌としてたかめていったが、ポルトガルでみた、いにしえの香りをまとったファディスタは、誇りとあわれみを持った娼婦の色気に満ちていた。
後年のアマリア・ロドリゲスのつくった歌詞の中に、"バラの葉は落ち、歌う声の葉も落ちてしまったが、私の愛は大地のくれる真実の愛"(私は草の娘)というものがある。
年をとったファディスタは売春宿のマダムのようでもあり、歌は色気を脱ぎすてて生命力にあふれていた。
(男性の歌うファドは凄みと甘さが味わいだと思うのだが、開きなおった凄みを持つファディスタはいなかった。)
II
リスボンの最後の夜に、魔法にかかったような体験をした。長い間アマリア・ロドリゲスさんの伴奏をしていたポルトガル・ギター奏者カルロシュ・ゴンサウヴシュさんに伴奏をしていただくことができた。
あまりの緊張で歌詞を忘れ途中で止まってしまっても、あたたかく見守ってくださって、私が歌えるかどうか心配しながらも、ほんとうにすばらしい演奏をしてくださった。
誠実で軽やかで、力強く美しかった。
歌に羽が生えて夢の国へと飛んでいった。
あのあこがれの調べにのって歌うことができて、すっかり満足して、なぜかほっとした。
ここはチャーミングな、いきのいい黒人のマダムがいる店で、おしゃれだが、どこかいかがわしいにおいが漂っていた。店の名は Guitarras de Lisboa。
リスボンに着いて二日目の夜にも、アマリア・ロドリゲスさんの妹セレステ・ロドリゲスさんに歌を聴いてもらうことができた。
同行した高場将美さんの知人であるマドレデウスのリーダー、ペドロさんの心づかいで歌わせていただいた。
みんなで夕食の後に行った Bacalhau de Molho という店で、セレステさんは毎週日曜日にここで歌っている。
とても静かで深い、立派なファドだった。
そのほかにも魅力的な Casa de Fado、お皿にはみ出すくらいに乗っているおいしい料理、チーズや卵黄をたくさん使った甘いお菓子……。
また機会があったら、お話しさせていただくことにして。
たくさんのすてきな思い出をつくってくれた
ポルトガルに愛と感謝をこめて。
峰 万里恵
Revista Marie
⇒ 峰 万里恵 「ファド・コンサート〜ポルトガル語教室」(2010/3/12記)
⇒ 峰 万里恵 撮影フォト・アルバム 「リスボンで見つけた……」
⇒ 高場 将美 「ジョアォン・リニャールシュ・バルボーザ通り」
⇒ 高場 将美 「ふたつのファドの家で」