峰 万里恵さんが、こんどファド «Júlia Florista»
(ジューリア・フロリーシュタ=花売り女ジューリア)を
レパートリーに入れたので、
各地の花売りが出てくるうたについて、
万里恵さんがうたっていない曲も含めて書いてみたい。
「花売りのジューリア」は、わたしはずっと、架空の人物だと
思っていたが、20世紀初め(1910年代)の
最高クラスのファドの歌い手だったそうだ。
1925年に亡くなった。
レコードを録音したこともあるそうだが、
どこかに秘蔵、あるいは死蔵されているようで、
いまのところ、わたしたちの聴けるところにはない。
また、彼女の時代では、ファドをうたうことは
職業として認知されていなかったと思う。
そのころ、「ファディーシュタ」ということばは、やくざもの、
一般社会からはみ出した人間を指していた。
ファディーシュタが、「ファドの歌い手」という意味を
(もしかしたら軽蔑するようなニュアンスを含んでいたかもしれないが)
確立するのは、1930〜40年代になってからだ。
「ファドの家」と呼ばれるライヴハウスが登場するけれど、
ずっと昔は、ファドの家とはほとんど売春宿のことだった。
ジューリア・フロリシュタ(花売り女ジューリア)の本名は、
いまのところ、わたしには調べがつかなかった。
どこへ行っても、その名前だけで通っていたのだろう。
ジューリアは、ほんとうに花を売って生計を立てていた。
昼間はリスボンの街を花を売り歩き、
夜になると酒場兼料理店(今日の「ファドの家」の前身)に
ファドをうたいに行ったが、
翌朝早く、川岸の花市場に現れたそうだ。
そこで、その日売る花を仕入れて、篭(かご)に
きれいに飾って、売りに出る。
貴族・上流階級のパーティ・宴会にやとわれて
うたいにも行った。これは、
かなり大きな収入になるのだが、
それでも彼女は花売りをやめなかったとのこと。
ファド «Júlia Florista»
(ジューリア・フロリーシュタ=花売りのジューリア)は、
彼女よりずっと後の時代(1950年代?)につくられた
歌謡曲だ。わたしには、
すこし甘すぎると感じられるが、歌謡曲はそうでなければいけない。
歌詞で「花は売ったが、愛は売らなかった」と、
言わずもがなのことを言っているようだが、
「昔のファドの歌い手=売春婦」という固定観念が
非常に強いので――事実でもあった――
一言、断っておかなければならなかったのだ。
なお、ジューリアはギターラ(ポルトガル・ギター)を、
自分で弾きながらうたった。
コードを「ジャラ〜ン」とかき鳴らすスタイルだったそうだ。
この曲をつくったのは、ブラジルで亡くなったファド歌手
ジョアキーン・ピメンテーウ Joaquim Pimentel と、
レオネーウ・ヴィラール Leonel Vilar のふたり。――作者たちについて、
もっとわかったら、書き加えます。
さて、花売りのジューリアは、勝ち気、
という以上の、強い女性だったようだ。
ここに紹介しなかった部分の歌詞では
「ラレー ralé の空気」をふりまいていた、と言う。
ラレーは、「社会のもっとも下層階級、社会的なのけ者、
俗人、平民」などのニュアンスを含むことばだ。
ジューリアは、反抗的で、挑発的。
男たちの軽薄な口説き文句や、野次に、
皮肉な返事で対抗し、やりこめたという。
強くなければ、ファドをうたえなかったかも?……
でも、彼女の声はやわらかく伸び、
うたは、とてもセンティメンタルだったそうだ。
アルゼンチンのワルツ «Chiquilín de Bachín»
(チキリーン・デ・バチーン)では、花を売るのは
女性ではなく、男の子だ。
この子も実在していた。
チキリーンというのは「チビっ子」というようなニュアンスの
愛称である。だれも本名は知らなかった。
この題名の意味も、事情を知らない人にはわからない。
うたがはじまって、だんだんと状景が見えてくる……。
ジーンズの花売り少年の名前が「チキリーン」なのだ。
「バチーン」というのは、大衆レストランの屋号で、
ブエノスアイレスの首都ブエノスアイレスの
中心街の一角には、ピチーンだのボターンだの、
おなじような名前の店がいくつかあって、
本家争いをしていた。どの店も
日本の焼き鳥屋にとてもよく似た雰囲気で、
お客ひとりにひとつずつ、小さなテーブルを、
手馴れた店員が人数に応じて動かして配置して、席を作る。
テーブルにはザラ紙(リサイクルによる黒っぽい半紙)を敷いてくれる。
食べ終わると、その紙の上に値段を書いて足し算をし、それが請求書。
支払いが済むと、脂が飛んで汚れたその紙は
丸めて捨てる。――すべて、なかなか合理的だ。
食べ物は、グリルで焼いたステーキ各種、
ソーセージ類、自家製のマタンブレ(いろんな肉や臓物の太巻き)……。
コレステロールの大洪水だ。
お客は、プロレタリア階級というわけでもなく、
ブルジョワも、いわゆる文化人やアーティスト、
スター級のミュージシャンもたくさん来た。
明け方近くまでやっているので、
ショーやパーティの帰りに、お客も出演者も来たわけだ。
わたしは30なん年か前に《バチーン》に行ったが
(この曲ができたすこし後)、チキリーン少年には会わなかった。
でも、タンゴ最高の人気楽団の指揮者、「リズムの王様」
フワン・ダリエンソ Juan D'Arienzo (Buenos Aires 1900 - 92) と、
1930年代からのフォルクローレ人気デュエット
《マルティーネス=レデースマ》のロドールフォ・
マルティーネス Rodolfo Martínez (Tucumán 1914) に出会って、お話ができた。
現在の《バチーン》は高級レストランっぽくなって、
壁にバチーン少年の肖像の油絵が飾ってあるらしい。
そんな興ざめなところに、わたしは行きたくないね。
この曲の歌詞は、実在の場所や人物とはほとんど無関係な、
シュールレアリズム(?)の詩だ。
この曲(リズムは、バラード風ワルツの3拍子)は、
1960年代の末にできた。
作詞者は オラシオ・フェレール
Horacio Ferrer (Montevideo 1933) ――
詩人でタンゴ研究・著述家である。
作曲者は アストル・ピアソーラ
Astor Piazzolla (Mar del Plata 1921 - 92 Buenos Aires) ――
バンドネオン奏者で、今日のタンゴ作曲・演奏スタイルを創造した。
このふたりは、María de Buenos Aires(ブエノスアイレスのマリーア)
という劇場作品を合作したのをきっかけに、
たくさんの単独歌曲もつくったが、
『チキリーン・デ・バチーン』は、そのなかでも、いちばん早い時期に
できたらしい。《バチーン》で食べていたとき、
フト気づいたら、そこにチキリーン坊やの顔があった。
それでインスピレーションを受けた曲である。
2年前のリサイタルで、峰 万里恵さんはこの曲を
うたい踊ったが、現在この曲をレパートリーに
しているのは、世界でただひとりだと思う(笑)。
«Mi florero»(わたしの花売り男)――
かつては、ポルトガルの アマーリア・ロドリーゲスさん
Amália Rodrigues (Lisboa 1920 - 99) が、
楽しんでうたっていた(日本のステージでも)。
元祖は、スペインの、フラメンコのディーヴァ、
ローラ・フローレスLola Flores (Jerez de la Frontera 1923 - 95 Madrid)。
そのローラさんの録音(1940年代??)をCDで見つけたので、
万里恵さんもうたうことにした。
作詞作曲者ルイス・ゴメス Luis Gómez については
まったくわからない。
曲のリズムは、アンダルシーアの港
カディスに生まれた《タンギージョ》。
実際の花売り男の売り声らしい口上で
曲が始まる。街頭の物売りの口上を
スペイン語では「プレゴン」という。
プレゴンをテーマにした曲は、各国にたくさんある。
それでは始まり。
この歌詞は、アンダルシーア発音を生かして書いた。
(s) は、発音しないのが「正しい」。
そのあと花売り男は、女性を花にたとえて
賛辞(?)をつらねる。
失礼の段はお許しください。
そのあと、黒檀(こくたん)の女性とか
出てきて、リフレーンになる。
なんとバカバカしい歌詞。
でも、これを跳ねるようなタンギージョのリズムで、
早口で歌われると、とにかく楽しい。
世界ぢゅうに花売りの歌はたくさんあると思うが、
その元祖みたいな曲はスペイン産だ。
«La Violetera»(スミレを売る女性)
――万里恵さんはうたっていないが、この記事で
ご紹介しないわけにはいかない。
『ラ・ビオレテーラ』――日本では「花売り娘」という題で
知られていると思うが、これはスペインの
《クプレ Cuplé 》というジャンルの曲だ。
クプレとはフランス語から借用したことばで、
パリのミュージックホールの歌みたいなもの
(シャンソンの歴史に無知なので、用語が違っていたらごめんなさい)。
19世紀末から、ヨーロッパの各都市に
大衆の娯楽場であるカフェ・小劇場ができたが、
そういうところでうたわれた曲である。
大衆の娯楽といっても、お客はすべて男性である。
世界ぢゅうが封建的で、風俗関係とか接客業以外の
女性はすべて夜は家に引きこもっていた。
クプレは劇場に楽しみにやってくる男ども
――ブルジョワも中産階級も、より貧しい者もいた――の
ためのジャンルだった。
クプレの歌手(圧倒的に女性が多かった)は、
たいへんな人気者もいたが、今日の
ポルノ女優ていどに思われていた。
有名な初期のクプレをご紹介しよう。
1894年に評判になり、数10年間にわたって、だれでも知っている
曲だったそうだ。
元はイタリアのポルカだったらしい(作曲者不明)。
ヨーロッパ全土に流行し、スペインの首都マドリードへは、
ドイツの女性歌手がもってきた。
すぐにスペイン語の歌詞も付いて、客席は
みんなでコーラスした。
タイトルは «La pulga»(ラ・プルガ)
――蚤(のみ)である。
こんな歌詞を、ノミを探すしぐさなどで
男性客を挑発してうたっていたのだ。
作詞者は エドゥアールド・モンテシーノス
Eduardo Montesinos (Madrid 1868 - 1930) という人だ。
マドリード市役所につとめながら、
政治的新聞の編集長であり、さらに
多くのサルスエーラ(スペインの歌劇・オペレッタ)の脚本を書き、
劇場の総監督・興行主としても活動。
新人からスターまで歌手を指導し、売り出し、
彼女たちのレパートリーの歌詞を量産した。
クプレ界の超大物、「元祖」みたいな人である。
スペイン著作権協会の創立者のひとりでもある。
クプレもやがて、どこの国にもあるような軽薄な内容を脱して、
スペインならではの色彩をもった歌謡曲になる。
その流れは、今日のスペイン・ポップなどにもつながる
大発展をする。
『ラ・ビオレテーラ(すみれ売り)』は、クプレが、
夫婦や家族もやってくるバラエティ劇場の舞台の華となった
時代の曲だ。1920年代の前半、
作詞者は、いまご紹介したばかりのモンテシーノスだ。
作曲者は、南スペイン出身の ホセ・パディージャ
José Padilla (Almería 1889 - 1960 Madrid)。
彼は14才でマドリードの音楽学校に入り、
やがてサルスエーラの作曲やオーケストラ指揮、
アルゼンチンに一時住んで、劇場音楽で活動。
タンゴも少し作曲した。
1921年に帰国して、おもにレビュー劇場の音楽で活躍。
『ラ・ビオレテーラ』は、そのころの曲だ。
その他の曲もいくつか国際的に有名になったので、
一時期は、パリのキャバレーのレビューでも活躍した。
《カジノ》《フォリー・ベルジェール》《ムーラン・ルージュ》といった店の
ショーの音楽監督をしたのだ。
ミスタンゲット Mistinguett
(Val d'Oise, Île de France 1875 - 1956 Bougival, Yvelines) の
十八番(初演1926年)«Ça c'est Paris»(サ・セ・パリ)も
パディージャの曲だ(作詞はもちろんフランス人)。
こんな曲は宝塚歌劇などを通じて
日本にも入ってきたとのこと。
パディージャは、日本でいちばん古くから
知られたスペイン人作曲家だろう。
この曲をヒットさせたのは、コプラの最高のスター、
国際的にも非常に人気があったラケール・メジェール
Raquel Meller (Tarazona, Aragón 1888 - 1962 Barcelona) だった
(彼女の名は、日本では昔は「メレ」後に「メリェ」などと表記されていた)。
彼女は、ヨーロッパ・南北アメリカ各地で公演したが、
ニューヨークで、チャーリー・チャプリン
Charlie Chaplin (London 1889 - 1977 Vevey, Swiss) に
会った。チャプリンは彼女の歌も美貌もたいへん気に入り、
映画『街の灯 City Lights』(1931年)に出演を希望した。
結局、話はまとまらなかった。
でもチャプリンは、この映画の名場面のバックに
『ラ・ビオレテーラ』のメロディを、ヴァイオリンで流している。
ただし、タイトル・クレジットに作曲者パディージャの
名前を出さなかったので、この曲を知らない人は
チャプリン作曲だと思いこんだ。
伝説によれば、チャプリンは「眠っていて夢のなかで
この旋律がわいてきた」と、
彼の作品であることを主張したという。
裁判とか表ざたにはなっていないが、
著作権をめぐる争いはあったはずだ。
まぁ、チャプリンに作曲家の才能があったことはたしかで
(楽譜は専門家に書いてもらったのだろうが)、
後年になって自作の無声映画の数々に音楽を付けている。
……とにかく『ラ・ビオレテーラ』は、映画『街の灯』よりもずっと前に、
世界的に有名な曲だったことを特記しておこう。
© 2008 Masami Takaba