「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美



ムーチョ・コラソーン
〜 ありあまる心 〜

――ボレーロとメキシコ女性作者 <中>



§ 女性とラテンのうた

ボレーロにかぎらず、ラテン音楽に
女性の作者は、非常に少なかった。
現代でも男性のほうがだんぜん多い。
他の芸術創作活動でもそうだったが、
社会がそうなっていたのだろう。
そんなむずかしい話はさておいて、
とにかく男性がうたをつくるので、
歌詞は女性に歌いかけるものが多くなる。
その歌詞は、女性歌手にも
じゅうぶんに表現できるのだけれど……。
芸術の創作活動は男性が独占していたような時代に、
今日まで残るスタンダード曲をつくった女性たちを、
いま、わたしが思いつく人だけご紹介しよう。
大事な名前が抜けているでしょうが、ごめんなさい。

アルゼンチンでは、スペイン内戦の取材に行ったりもした
ジャーナリストで、詩人で作家の
マリーア・ルイーサ・カルネッリ María Luisa Carnelli
(La Plata, Prov. Buenos Aires 1898 - 1987 Buenos Aires) という女性が、
異性にうたいかけるのではないタンゴ
«Se va la vida»命短し)、
«Cuando llora la milonga»ミロンガが泣くとき)などを
1920〜30年代に作詞した。
女性の作詞者なんて認められない
(女性歌手にもうたってもらえない)時代なので、
彼女はこれらの曲を ルイス・マリオ
Luis Mario という男性の名前で登録した。
(そうせざるをえなかった。新聞記事も男性のペンネームを使った)

タンゴの女性で、後世に残る有名な曲をつくったふたりは、
ともに歌手として最高の評価を得ていた。
アスセーナ・マイサーニ Azucena Maizani
(Buenos Aires 1902 - 70) は、ピアニストと合作の
«La canción de Buenos Aires»ブエノスアイレスの歌)、
単独で «Pero yo sé»でもわたしは知っている)を作曲した。
メルセーデス・シモーネ Mercedes Simone
(La Plata, prov. Buenos Aires 1904 - 90 Buenos Aires)
«Cantando»カンタンド=歌いながら)を
作詞作曲した(ほかにも、いい作品がある)。

Cantando yo le di
mi corazón, mi amor
y desde que él se fue
yo canto mi dolor.
Cantando lo encontré
cantando lo perdí,
porque no sé llorar,
cantando he de morir.
うたいながら わたしはあのひとに与えた
わたしのこころ わたしの愛を
そして彼が去ってからは
わたしは わたしの痛みをうたう。
うたいながら あのひとに出会った
うたいながら あのひとを失った
わたしは泣くすべを知らないから
うたいながら 死んでゆこう。

キューバのトローバには、
男性たちからも尊敬される「巨匠」クラスの
マリーア・テレーサ・ベラ María Teresa Vera
(Guanajay, Pinar del Río 1895 - 1965 La Habana) がいる。
あの有名なボレーロ――最初の形式名はアバネーラ――
«Veinte años»20年)の作者だ。
この曲などマリーア・テレーサさんの作品の真の作詞者は
ギジェルミーナ・アランブールGuillermina Aramburu という
同郷の幼いころからの友だちで、
自分の結婚生活の破綻の悲しみからこの歌詞を書き、
マリアー・テレーサさんに、うたってくださいと頼んだのだという。
ギジェルミーナさんは上流階級の人だったので、
自分でうたうどころか、作者として名前を出すことさえもできなかった。

Si las cosas que uno quiere
se pudieran alcanzar,
tú me quisieras lo mismo
que veinte años atrás.
もしじぶんがほしいものがなんでも
手に入れられるものならば
あなたは わたしに同じものをのぞむでしょう
20年前と同じものを。

メキシコの女性詩人で ロサーリオ・サンソーレス Rosario
Sansores
(Mérida, Yucatán 1889 - 1972 México D.F.) という人がいた。
キューバ人と結婚して(死別)わりあい長くハバナに住んでいたので、
彼女をキューバ人とした資料もあるが、
生涯の大半は故郷メリダですごした。
この記事の「前編」に少し書いたが、
ユカタンの州都メリダは、内陸にある首都メキシコよりも、
カリブ海のほうを向いているようなところがある。
ロサーリオさんは雑誌のコラムニストでもあり、
ハバナでもメリダでも文筆家として活躍したようだが、
わたしは、その面での足跡はまったく知らない。
ただ1曲、«Sombras»
ソンブラス=影たち)という美しい曲の
歌詞を書いたことで、
ロサーリオさんは、音楽ファンにとって不滅の存在となった。
ソンブラス』は、ロサーリオさんが、「歌詞」ではなく
「詩」として発表したものを、
読んで感激した見も知らぬ作曲家が、曲にしたのだそうだ。
その詩は、この時代(1930年代?)では発禁スレスレの
官能性にあふれている。

En la penumbra vaga
de mi pequeña alcoba
donde una tibia tarde
me acariciabas toda,
te buscarán mis brazos,
te besará mi boca
y aspiraré en el aire
aquel olor a rosas.
Cuando tú te hayas ido,
me envolverán las sombras.
わたしの小さな寝室の ぼやけた灰色の闇のなか、
ある あたたかい午後に
あなたが わたしのすべてにやさしくふれた そのへやで
わたしの両腕はあなたをさがしもとめるだろう
わたしの口はあなたにキスするだろう
そしてわたしは 空気のなかから吸いこむだろう
あのバラたちの匂いを。
あなたが去って行ってしまったときには
わたしを包むだろう 影たちが。

この曲に作曲したのは、遠い南のエクアドール国のアンデス地帯、
海抜2,700m のリオバンバ市で吹奏楽団指揮などしていた
カルロス・ブリートCarlos Brito Benavides
(Uyumbicho, Quito 1891 - 1943 Quito)――男性である。
この地方のもっとも愛されている伝統舞曲
《パシージョ pasillo 》の形式で作曲された。
ロサーリオさんの数々の詩が、エクアドールの音楽家によって
作曲されているようだ
(わたしは『ソンブラス』以外、聴いたことがないのだが)。
エクアドールとユカタンとは、不思議に共感があるようで、
音楽家の交流もあった。
パシージョは、ユカタンでは《クラーベ clave 》と改名されて、
重要な伝統音楽になっている。
ロサーリオさんは、エクアドールには、晩年にたった1度だけ行った。
エクアドールの国民音楽パシージョの、
世界的にもっとも有名な曲『ソンブラス』の
作者という功績で、エクアドール国から
勲章をさずけられ、それをもらいに行ったのである。

フォルクローレでは、チリにビオレータ・パーラ
Violeta Parra (San Carlos, Chillán 1914 - 67 Santiago) という偉大な女性がいるが、
ここでは紹介しきれない。
ペルーの女性 チャブーカ・グランダについては、この付録の
別記事をお読みください。『男性にささげるワルツ

……さて、メキシコは最高級の女性作者を3人も!(笑)出した。
その3人をご紹介しよう。


§ ムーチョ・コラソーン(ありあまる心)

ElenaValdelamar

エマ・エレーナ・バルデラマール
(SACM=メキシコ音楽作詞作曲家
協会のサイトより転載)

この記事の前編で、ボレーロ・
ランチェーロのヒット曲
として名前を挙げた
«Mucho corazón»ムーチョ・
コラソーン
=ありあまる心)の
作者はメキシコ女性で、
エマ・エレーナ・バルデラマール
Ema Elena Valdelamar
(Aguascalientes? 1925) という。
現在はもう、歌手として
ステージに立つことはなく、

ナイトクラブめぐりで遊び歩いたりすることもないようだけれど、
(だいたい、ナイトクラブそのものがない)
新しい曲を作ることもあり、お元気のようだ。

この記事を書くにあたって、基本的な情報などを、メキシコ
音楽作詞作曲家協会(略称SACM)のサイト
www.sacm.org.mx から引用させていただいた。
このサイトの、エマ・エレーナさんのバイオは、
息子のダリーオさんが書いているのだが、
(彼女が)幼いころは、父(メキシコ国鉄に勤務)の転勤のため
各地に住んだとあるだけで、
出生地が記してない。わたしが勝手に、ダリーオさんが列記した土地の最初にあった
アグアスカリエンテス生まれと、上に記した。
違っていたらごめんなさい。いずれにしても、10代の初めからずっと
首都、メヒコ連邦区(いわゆるメキシコ・シティ)に住んできた。
なお、彼女のファースト・ネームを Emma と書いた資料などがたくさんある。
これは、彼女の曲をUSAで楽譜出版したとき、
出版社のほうで英語での書きかたに直したのだろう。
スペイン語では m は一般的にはひとつだ。
ただしメキシコ映画女優で m ふたつの人もいた。

彼女のことを紹介したくて書きはじめた記事なのに、
バックグラウンド(?)を説明する前置きが、
こんなに長くなってしまった。
とにかく、『ムーチョ・コラソーン』の歌詞をまずご紹介しよう。

Di si encontraste
en mi pasado
una razón
para quererme, o . . .
para olvidarme.
Pides cariño,
pides olvido
si te conviene.
No llames corazón
lo que tú tienes.
言いなさい あなたはわたしの過去のなかに
わたしを愛する理由を見つけましたか それとも……
わたしを忘れる理由を。
あなたは愛情をわたしに求める
あなたのつごうのいいように 忘れることを求める。
あなたのもっているものを
心だとは呼ばないでください。

エマ・エレーナさんの息子ダリーオさんは、
お母さんの曲の大ファンで、
ほかの女性作者と比べて
(ほかの作者も大好きですが、とことわって)
エマ・エレーナの特徴を、こう書いている。
――ほかの女性作者は「求める」。
たとえば「たくさんキスして」「わたしに誓って」等々多くの例がある。
(「求める」これらの曲については、この記事の他の作者のところでご紹介します)
でも、エマ・エレーナさんは「与える」。
――そして、ダリーオさんは、エマ・エレーナの作品から
いろいろ引用している。
たとえば『ムーチョ・コラソーン』の最後の部分はこうだ。

Dar
por un querer
la vida misma
sin morir,
eso es cariño,
no lo que hay en ti.
Yo para querer
no necesito
una razón.
Me sobra mucho,
pero mucho corazón.
ひとつの 愛するということのために
命までも与えてしまう それで死ぬこともなく
――それが愛情というもの
あなたのなかにあるのは それではない。
わたしは愛するために 理由はひとつもいらない。
わたしには あまっている
いっぱい ほんとにいっぱい 心が。

エマ・エレーナさんの、『ムーチョ・コラソーン』とならんで
有名な曲に «Mil besos»(千のキス)がある。
わたしは、この2曲しか知らないのだが(すみません!)、
メキシコでは «Cheque en blanco»(白紙小切手)ほか
数々のヒット・ボレーロがあるようだ。
そのどの曲も、まったく同じ内容というか、
同じ心をうたっている。
その中では『ムーチョ・コラソーン』が、
ことばにむだがなく、表現があざやかに生きている。
傑作だと思う。
でも、その傑作といえども、歌詞のどの部分をとっても
同じことを言っている。
峰 万里恵さんは起伏のある表現を心がけているので、
この曲なんかは、すごくやりにくい。
練習しながら、「これではシツコイかなぁ?」と困っているが、
曲の心がシツコイので、仕方がない(と、わたしは思った)。
とにかく、エマ・エレーナさんは、徹底的に(といっては誇張だけれど)
ただひとつのテーマで、
たくさんの曲をつくった人のようだ。

ムーチョ・コラソーン』をお聴きください。
ライヴの記録用録音で、音質・バランスは良くありませんが……
峰 万里恵(うた) 三村 秀次郎(レキント) 高場 将美(ギター)
«Mucho corazón»

彼女は子どものころから、うたが好きで
ラジオなどで聴いたロマンティックな曲を
たくさん覚えてうたっていたそうだ。
そのさい、歌詞のよくない部分(!)を
勝手に改定して、自分で書き直していたそうだ。
「作者に失礼でしたね」と、近年のインタビューで、
エマ・エレーナさんは笑っている。
「わたしだったら、1文字変えることも許しません」
中学1年くらいで、初めて自分で作詞作曲するようになった。
彼女は商業学校へ行った。
当時の女性としては高等教育を受けたほうだろう。
ところが彼女は、オフィスに就職するのはいやで、
うたの道を進みたいと言いだした。
今日でも世界ぢゅうの大多数の人は
(口に出さなくても)アーティストに差別意識をもっているのだから、
当時の、封建的なメキシコでは大変!
母親は半狂乱になって(とわたしは思う)反対したが、
お父さんが「まぁいいか……がんばりなさい」と言ってくれた。
インタビューで、エマ・エレーナさんは、
「アーティストは自分を他人に与えるのです。
自分を捧げるのです。わたしには、
そういう人生しか考えられませんでした」と言っている。
「有名になりたいと思ったことはありません」ともいう彼女は、
作品は有名になったが、
作者の名前は一般には知られていなかった。
歌手としての活動は、首都や地方都市のナイトクラブ、放送局……
派手ではなかった。スターにはならなかった。
そして、自作よりも、他人のつくったいい曲をうたうほうを好んだ。

以下の記事は、エマ・エレーナさんへのインタビューを基にしている。
ただし彼女自身が話をボカしたのか、
記者の不手際か、いくつかアイマイな部分がある。
わたしの判断で話をつなげたので、解釈が違っていたらごめんなさい。
大筋は正しいはず。

たぶんラジオのスタジオ公開番組のコンクールで、
エマ・エレーナさんの作詞作曲した
«Mil besos»(千のキス)と «Devuélveme el corazón»
(わたしの心を返して)が優勝した。
作者名は伏せて、聴衆の反応で順位を決めたようだ。
これで力づけられたエマ・エレーナさんは、
メキシコ最強のレコード会社RCAに
曲を売り込みに出かけた。
30曲もって、音楽監督の マリアーノ・リベーラ・コンデ
Mariano Rivera Conde (?? - 1977 México D.F.) に会いに行った。
リベーラ・コンデは言う。
「この曲はみんなあなたがつくったの?」
「はい、そうです。うたってお聴かせします」
「その必要はない。女のつくった曲なんか
なんの価値もない。お持ち帰りください」
「そんな!……じゃぁ、いいです。よその会社に持って行きます」
「無駄だよ。わたしが言えば、どこの会社も
あなたの曲は録音しない」
――ほんとうにそうなって、その後ずっと彼女の曲は
全レコード会社から無視された。
リベーラ・コンデはメキシコ音楽界の頂点にいる
大物だから、そのくらいのことはできた。
彼の奥さんは『ベサメ・ムーチョ』をつくった
女性作詞作曲家コンスエーロ・ベラースケスだから、
ずいぶん変な話だが……。
エマ・エレーナさんの態度が気に食わなかったのか?
天敵だったんでしょう。

コンスエーロさんの夫について、
この記事の次の項にも、別記事
メキシコ男の愛と涙』にも紹介されています。
マリアーノ・リベーラ・コンデ

それから40年たって(と、エマ・エレーナさんは言っているが、
この数字は明らかに誇張である)、
彼女はランチェーラ作者で歌手の
ホセ・アルフレード・ヒメ−ネス José Alfredo
Jiménez
(Dolores Hidalgo, Guanajuato 1926 - 73 México D.F.)
話があって、RCAの一室にいた。
そこへ、リベーラ・コンデが入ってきた。
「わたしを覚えていますか?」と言う。
「もちろん覚えていますよ」
「わたしはあなたに許しを乞いに来ました。
わたしはあなたの作者としての勝利を奪ってしまいました。
わたしは、いま病気で、あと2〜3ヵ月しか生きられません。
(ガンだったのだろう)
あなたに許してもらえないと、
心安らかに死ぬことができません」
「わたしはもうあなたを許していますよ。
復讐なんか考えていません」
リベーラ・コンデは、ほどなく亡くなった。

リベーラ・コンデから「干される」前だろうが、
1949年に(この年代は確実)、
エマ・エレーナさんの前述の2曲は、
映画(後にテレビ)女優としても人気の マリーア・ビクトーリア
María Victoria (Guadalajara, Jalisco 1933) などがうたって、
RCAで発売され、2曲とも後にゴールデン・ディスク
となる大ヒットだった。

翌1950年には«Mucho corazón»ムーチョ・コラソーン
=ありあまる心)が、やはりRCA発売でヒットした。
うたったのは、キューバから来ていた歌手ベニー・モレー
Benny Moré (Santa Isabel de las Lajas, Cienfuegos
1919 - 63 La Habana)

メキシコの歌手・アレンジャー・バンドリーダーの
ラロ・モンタネー Lalo Montané
(Tlalixcoyan, Veracruz 19??) のデュエット。
エマ・エレーナさんは、この録音に立ち会って、スタジオにいた。
そして10回も録り直しをさせたそうだ。
音を伸ばすところ、切るところ、休むところ、
すべて作者の指定どおりにうたわないと
許さなかったのである。
偉大なベニー・モレーはその後ソロでもこの曲を録音し、
十八番のひとつにしていた。
また、この曲は1950年代末に、
アマーリア・メンドーサ Amalia Mendoza
(San Juan Huetamo, Michoacán 1923 - 2001 México D.F.)
ボレーロ・ランチェーロのスタイルで
リヴァイヴァル・ヒットさせた。RCAで!

エマ・エレーナさんは、『ムーチョ・コラソーン』の最高の録音は
ルイス・ミゲール Luis Miguel (San Juan, Puerto Rico 1970)
だと言っている。
この録音(90年代)をプロデュースした
アルマンド・マンサネーロ Armando Manzanero
(Mérida, Yucatán 1935) が、
完成したCDをプレゼントして聴かせてくれたとき、
彼女は感激して泣きだしてしまったそうだ。
ルイス・ミゲールはスタジオで、やはり泣きながらうたっていたと、
マンサネーロが教えてくれた。

エマ・エレーナさんは、一般の人が顔を知っているような
スターではなかったが、作者たちの業界では
たいへん尊敬され、愛されている存在だ。
一時は(たぶん1960年代初め)8人の作者たちの
プライヴェートな集まりを開いていたそうだ。
それぞれが未発表の新曲を自分でうたって
聴いてもらう飲み会。――仲間には、
ランチェーラの「王様」ホセ・アルフレード・ヒメーネスや、
トリオ・ロス・パンチョス Trío los Panchos などに
たくさんの曲を提供していたクラウディオ・エストラーダ
Claudio Estrada (Veracruz 1910 - 84 México D.F.)
(ギターの名手でもあった)がいた。
重鎮のタタ・ナチョ Tata Nacho
(Oaxaca 1894 - 1968 México D.F.) も……。
エマ・エレーナさんは、メキシコのうたの黄金時代の
代表者のひとりなのである。
長く、レコード業界から、しめ出されていたので
歌手としてはまったく、
作者としてはほんの少ししか
広く知られることはなかったが、
ムーチョ・コラソーン(ありあまる心)』1曲だけで、
ラテン世界のうたつくりの巨匠の仲間に入ったといえる。
この曲は、歌詞はもちろん、音楽的にも
ほかに似ていない、個性をもっている。
メロディの重要な音の多くが、基本の和音から外れて、
上ずった感じで、緊張が高い。
そこに歌詞の感情を乗せて、自然に聴かせるためには、
うたうほうは、相当の体力が必要だろうと思う。

つづく
⇒ ムーチョ・コラソーン <下>


「うたを もっと 感じるために」

目次

© 2008 Masami Takaba



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