「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美


瓦屋根の古い大きな家



峰 万里恵さんが、このところ気に入って、研究を重ねてうたっているワルツ
«Caserón de tejas»(瓦屋根の古い大きな家)について書いてみたい。
まず、この題名だが、いちばんよい日本語訳は「瓦屋敷」だろうと思う。
でも、あんまり日本語として熟しているので、
木づくりの日本家屋の堂々たる姿が浮かんできて、
イメージが食い違ってくるような……。
國木田独歩『武蔵野』なんて連想されたら困るし……。
「カセローン」という1語を、長々しく「古い大きな家」と置き換えるのは、
なんか不自然ではあるが、それでも、わたしはこうしたかった。
作者たちに怒られそうな気もするが、
釈明して許してもらえる自信もある。
いやぁ、むずかしいですね。


§ 作詞者カトゥロ・カスティージョ

この曲の歌詞をつくった カトゥロ・カスティージョ
Cátulo Castillo (Buenos Aires 1906 - 75) が、
タンゴの世界に登場したのは、まず作曲家としてだった。
十代のころ、当時は芸術家気質の人も肉体訓練として好んでいたスポーツ、
ボクシングのジムに通い、かなり優秀だったらしい。
オリンピックの代表選手クラスにまでなったそうだ(フェザー級)。
このころオリンピックのボクシング種目で、
アルゼンチンはなかなかよい成績で、水準が高かった。
カトゥロは結局オリンピックには出場しなかったと思う。
それはさておき、ピアノも正式に学んでいたカトゥロは、
18才のときに «Organito de la tarde»たそがれのオルガニート
という後世に残るタンゴを作曲した。
この曲に歌詞をつけたのが、カトゥロの父親、ホセ・ゴンサーレス・カスティージョ
José González Castillo (Rosario, Santa Fe 1885 - 1937 Buenos Aires) である。
この父が息子に付けた名前は、正式にはふたつで、
Ovidio Catulo(2番目の名前はアクセント記号なしだった)
ローマ時代の詩人の名前をふたつ――オヴィディウスとカトゥルス――
並べた命名である。

1940年代に大活躍のタンゴ・アーティストには、
ギリシア、ローマの詩人の名前をもった人が目立つ。
オメーロ(ホメーロス、英語読みホーマー)や
ビルヒーリオ(ウェルギリウス、英語ヴァージル)。
詩人ではなく侵略軍の名将アニーバル(ハンニバル)もいる。

さて、父親ホセは、アナーキスト思想のため国外に亡命したこともあるが
――息子カトゥロも少年時代はチリ国で極貧の逃亡生活を体験――
20世紀初めから、アルゼンチン屈指の劇作家として
非常に高名な存在だった。その劇は貧しい者からの
メッセージをもっているが、とてもおもしろくて、思想抜きでたのしめ、
感動できる。真に大衆的あるいは民衆的とよべるもので、
ホセ自身で劇団ももっていた。
1920年代には、芝居の上演には、タンゴの挿入歌が客寄せに不可欠の要素となる。
ホセも台本書きだけでなく、自然な成り行きで作詞もはじめる。
すぐに、芝居とは関係ないタンゴの作詞もするようになり、
とくに有名な曲は、1923年の «Silbando»口笛を吹きながら
――作曲:カトゥロ・カスティージョ セバスティアーン・ピアーナ(後出)、
24年の «Griseta»グリセータ=パリのお針子)
――作曲:エンリーケ・デルフィーノ Enrique Delfino (Buenos Aires 1895 - 1967)
これらの歌詞のテーマ・内容は、タンゴ歌曲史上初めてといえるもので
――タンゴ歌曲の歴史は1917年に始まったばかりだけれど――
後のこのジャンルに多大な影響を与えた。
ホセ・ゴンサーレス・カスティージョ は、後にタンゴの歌いかたの発明者となる
カルロス・ガルデール Carlos Gardel (?? - 1935 Medellín, Colombia) が、
まだ無名の民謡歌手だったときに才能を認め、
より広い活動の場を開いてあげた人である。
ホセが通い、息子カトゥロも通ったボクシング・ジムに、
スターの条件としてシェイプアップをすすめられて、
ガルデールも通ってきた。あまり熱心ではなかったようだが。

ホセは、民衆精神を高揚する
――すなわち権威主義やブルジョアに対抗する――
文化人のリーダー格のひとりであり、
演劇界の大物でもあったところから、芸能界あるいはタンゴの
プロ・アーティストのサークルでもよく知られた存在だった。
こんな父親の息子、カトゥロ・カスティージョ が、いちばん熱心にやっていたのは、
音楽の勉強ではないかと思う。
国立マヌエール・デ・ファリャ音楽院で、
なん年もかけて全課程を修了した。
1930年には、この高名な音楽学校(日本の音大にあたる)の
音楽史と音楽教育の教授になり、
最後には院長にまでなった。結局は27年間も
この音楽院につとめていた。プロのピアニストとしての
演奏活動はほとんどしていないと言える。
1920年代の末から、タンゴ楽団と歌手のグループに入って
2回ヨーロッパに遠征したけれど、結局はうまくいかず、
ほとんど路頭に迷ってしまった(最初は大成功だったというが)。

作曲家としては、『たそがれのオルガニート』以外にも、
おもにセバスティアーン・ピアーナ(後出)と合作として、
ホセ・ゴンサーレス作詞で、いいタンゴを発表していた。
ただし、この合作は、どういう創作の比率なのか、不明だ。
タンゴ歌曲は各16小節のふたつの部分で構成されるのが標準で、
それぞれの部分の核とするために、ふたつの
(多くの場合、各部分の出だしの)
メロディ・フレーズ、モティーフが必要だ。
音楽的アイディアがふたつなければいけないので、それらを
持ち寄って合作したのだろう。

音大教授であってタンゴ作曲家のカトゥロ・カスティージョ は、
知らず知らず(というのは変だが)、
作詞家に変身した。きっかけは、
父親が亡くなったので、その代理という感じだったと思う。
最初に注目された曲は、1941年発表の
――41年10月にトロイロ楽団〜フィオレンティーノ歌で録音。
当時は多くの場合、初演と録音はほぼ同時だが、
数ヶ月もライヴで演奏してから録音する場合もあった――
«Tinta roja»(赤いインク)だった。
この曲誕生のいきさつは――
(1)セバスティアーン・ピアーナが、奥さんの誕生日の前日に
プレゼントを買うお金がなかったので、
音楽出版社に「新曲ができた。明日もってくるから」と嘘をついて
(まだ、曲想も考えてなかった)
楽譜出版の印税を前借りした。
ピアーナほどの実績があると、そういうことが可能だったらしい。
(2)ピアーナはその晩、30分もかからないで、
1910年代のタンゴみたいな
リズミックで、「場末風」と呼ばれる乱暴な感じの曲をつくり、
すぐにカトゥロに電話して作詞を頼んだ。
(3)うたうようではなく、ブツブツ切れたメロディなので
カトゥロは困ったろうと思うが、なんとか
作詞――というより、ことばを無理にはめ込んだ感じ。
(4)でも、結局できたものは傑作だった
(この曲の真価が認められるのは、40年ぐらい後だが)。

Paredón,
tinta roja en el gris
del ayer . . .

. . . . . .

Veredas que yo pisé,
malevos que ya no son.
Bajo tu cielo de raso
trasnocha un pedazo
de mi corazón.
大きな土塀
過ぎた日の灰色のなかに
赤いインク……

…………

わたしが踏んだ歩道たち
もうゴロツキではなくなったゴロツキたち。
おまえのビロウドの空の下で
朝まですごす
わたしの心のひとかけら。

最初と最後だけ引用したので、
わかりにくかったら、ごめんなさい。
「おまえ」というのは、場末の月です。
この歌詞をみて、オメーロ・マンシ
Homero Manzi (Añatuya, Santiago del Estero 1907 - 51 Buenos Aires)
大きな影響を感じる人が多いと思う。
アルゼンチンの評論家で、カトゥロのことを、
マンシの亜流・模倣者のように評する人もいる。
しかし、この曲は、マンシ作詞の «Barrio de tango»(タンゴの街)や
«Sur»(スール=南)よりも、先にできている。
そして、このように、ブエノスアイレス南部の
19世紀末から20世紀初めにかけて存在した
都会と草原がミックスした風景、
その風景のなかの人間たちの魂を、
タンゴの歌詞の中にうたいあげた元祖は、カトゥロの父
ホセ・ゴンサーレス・カスティージョ なのだ。
彼が主宰する(というほど形式ばったものではないが)
南の地区の詩人などのカフェでの集まりは、
オメーロ・マンシの学校のようなものだった。
カトゥロとオメーロは、同級生みたいなもの、
ずっとおなじ空気を吸ってきた。
おなじことばを話していたともいえる。
ずっと親友だった。
オメーロの歌詞にカトゥロが作曲したタンゴもある。
カトゥロが、亡くなったオメーロに捧げた
«A Homero»(オメーロに)は、オメーロの数々の
名作の歌詞のことばをコラージュしている。
作曲はバンドネオン奏者で楽団リーダーの
アニーバル・トロイロ Aníbal Troilo (Buenos Aires 1914 - 75)

Fueron años de cercos y glicinas,
de la vida en orsái y el tiempo loco.
Tu frente triste de pensar la vida
tiraba madrugadas por los ojos.
Y estaba el terraplén y todo el cielo,
la esquina de zanjón, la casa azul . . .
Todo se fue trepando su misterio
por los repechos de tu barrio sur.
それは生垣と藤棚の歳月だった
オフサイドになってしまった人生と 狂乱の時代の。
人生を考えて悲しくなった きみのひたいは
両目から夜明け前の光を放っていた。
そしてそこには土手があった そしていちめんの空
あの掘割の街角 あの青い家……
すべてが去って行った その神秘をよじ登りながら
きみの南の街の数々の上り坂を通って。
*オメーロ・マンシについては、『タンゴの街』をお読みください。

赤いインク』にもどって、
この歌詞の最初の部分などは、
タンゴの歌詞としては非常識な、不規則な詩形と韻律をもって、
多くの人が嫌がる「現代詩」になっている。
こんなことをした元祖は、
1940年代にタンゴの歌詞に革命を起こし、
いまも最高の評価を受けているオメーロ・エスポーシト
Homero Expósito (Campana, Prov. Buenos Aires 1918 - 87 Buenos Aires)
ということになっており、わたしもそう信じていたが、
『赤いインク』はエスポーシトの諸作品よりも
先に発表されているのである。
創作から発表まで数年かかる場合があるし、
また、先に作ったから偉いというものでもない。
それはそれとして、タンゴに現代詩を導入したのは
エスポーシトひとりではなかったことを認識しておきたい。
カトゥロの『赤いインク』は、ピアーナの曲が
ブツブツ切れたフレーズだったので、
仕方なくシュールレアリズムの(?)詩に
なってしまったのかもしれない。
また、同時代、および後の時代への影響は、だんぜん
エスポーシトのほうが強い。
でもとにかく、カトゥロをあなどってはいけませんよ、ということ。

*オメーロ・エスポーシトについては、「夜の花びら」に、少しですが、書いてあります。

この記事のテーマである『瓦屋根の古い大きな家』は、
『赤いインク』と同じ年に発表された曲だが、
ここでは、その後のカトゥロについて、
先にご紹介しておきたい。
作詞家となったカトゥロ・カスティージョ
第一級の成功をおさめ、数々のヒット曲を出した。
今日、彼の代表作とされる «La última curda»(最後の酔い)は
1956年にできたが、発表当時は、
難解とされ、まったく受けなかった。
ポピュラー(?)になったのは、20年以上後である。
この曲は、アニーバル・トロイロが思いついて
あたためていた4小節ほどのメロディを、
作詞・作曲の同時進行で発展させて、
数時間で1曲に仕上げた。
トロイロのマンションで飲みながらつくり、
同席していた歌手エドムンド・リベーロ
Edmundo Rivero (Valentín Alsina, Gran Buenos Aires 1911 - 86 Buenos Aires)
初演者となった。歌詞は現代詩スタイルの、不規則な韻律、
シュールレアリズムのことばづかいで、
酔いどれの妄想的な幻覚の世界をみごとに浮かび上がらせる。
革命的なオメーロ・エスポーシトより、もっと前衛的だ。
もうひとつ、カトゥロ作詞でとくに有名な曲は、
«El último café»(最後のコーヒー)。
作曲はピアニストの エクトル・エスタンポーニ
Héctor Stamponi (Campana, Prov. Buenos Aires 1916 - 97 Buenos Aires) で、
1963年に、ある歌謡コンクールで優勝し、
今日もたいへん多くの歌手がうたっている。
メロディやハーモニー、そして歌詞の内容に、
いわゆる「タンゴ性」はほとんど(まったく?)ない。
それが作者たちのねらいだったし、
新しい世代のアーティストたちが気に入っている理由だろう。

作詞家としてのカトゥロは、一般的評価では、マンシやエスポーシトの
亜流と思われてきた。さらに、エンリーケ・カディーカモ Enrique
Cadícamo
(Luján, Prov. Buenos Aires 1900 - 99 Buenos Aires) っぽい部分もある。
また、意識的に、エンリーケ・サントス・ディセーポロ
Enrique Santos Discépolo (Buenos Aires 1901 - 51)
スタイルをコピーした曲もある。
そんなことから、わたしも、カトゥロはあまり個性のない、
ただ器用な作詞家なのだと、長いあいだ思っていた。
でも、ただ器用というだけではない才能があったことも、
だんだんにわかってきた。他人にスタイルは似ていても、
ほかのだれにも書けない彼自身のことばを書いている。
やがて、彼の死後だいぶたって、
彼の奥さんへのインタビュー記事を読んで、
なんとなく彼がわかってきた。それによると、
カトゥロは1種の霊能者で、ESP(超感覚的知覚)の
もちぬしだったのだ。
わたしは実際に会ったことはないが、そういう人は、
わたしたちが思っているより意外に多く
実在していることは知っている。
カトゥロは、災害を予告して世間を騒がせたり、
超能力を売りものにしたことはないが、
日常生活で、起こるはずのないことを、ごく自然に予言し、
その予言はぜんぶ当たっていたそうだ。
彼には当然の、ふつうのことだったらしいが、
あんまり不思議なので、奥さんは、
カトゥロが変なことを言うと、ぜんぶメモしておき、
そのとおりのことが起きるので、ひとりで、おもしろがっていた。
それである朝、ヒゲをそっていたカトゥロは、
「アッ、ぼくはちょうど10年後の今日死ぬよ」と言った。
奥さんはビックリしたけれど、「これは当たらないな」と思い、
でも日記には書いておいた。
その後すっかり忘れていたが、カトゥロが、とくに病気もなく
死んでしまった。そのとき思い出して、
奥さんが日記を取り出して見たら、
ほんとに予言どおりの日付だった。
…………
そんなカトゥロは、他人の感じることを先に感じたり、
あるいは他人になり代わって感じることのできる
人でもあったのかな、と、わたしはなんとなく、
謎が解けた気でいる。
とにかくカトゥロ・カスティージョは、
神秘を感じ、じぶんの体内にも、もっていた作詞家である。



§ 作曲者セバスティアーン・ピアーナ

瓦屋根の古い大きな家』の作曲者は、さっきからたびたび名前が出てきた
セバスティアーン・ピアーナ
Sebastián Piana (Buenos Aires 1903 - 94)
お父さんはイタリア系の床屋で、アマチュア音楽家。
マンドリン、ギターはもちろん、ピアノと
読譜を習って、タンゴ演奏グループをつくったりもしたそうだ。
カトゥロの父のホセ・ゴンサーレス・カスティージョは
若いころ、床屋で働いていたというから、そこが最初の接点だったかもしれない。
また、ピアーナお父さんは、偉大なタンゴのピアニスト・作曲家・
楽団リーダーの オスバルド・プグリエーセ Osvaldo Pugliese
(Buenos Aires 1905 - 95) の父 アドールフォ Adolfo とは
音楽上の交流があったとのこと。アドールフォ・
プグリエーセはイタリア系の靴職人で、
フルートを吹いていた。
セバスティアーン・ピアーナは、正式にクラシックの先生についてピアノを学び、
若いころから、ピアノと音楽の教授を職業としていた。
1927年には、妹の夫となった高名なバンドネオン奏者、
ペドロ・マフィア Pedro Maffia (Buenos Aires 1899 - 1967)
共同で音楽学校をつくった。マフィアは
経営者としては失格なので、長つづきしなかったと思う。
それはともあれ、ピアーナは国立音楽院で、あるいは個人で
ずっとピアノと音楽の教授をつづけた。

作曲家としてのセバスティアーン・ピアーナが、
わたしたちにいちばん重要な面だが、ここでは省略する。
作曲だけでは、とても生計は立たなかったとピアナは語っていた。

演奏活動の足跡は大きいとはいえない。
ペドロ・マフィアとの共演で資料に残っているのは、
1935年の《ロス・シンコ・アーセス・ペベーコ Los 5 Ases Pebeco 》という
グループ。――当時最高の4人のバンドネオン奏者たち、マフィア
ペドロ・ラウレンス
Pedro Láurenz (Buenos Aires 1902 - 72)シリアーコ・オルティース
Ciriaco Ortiz (Córdoba 1905 - 70 Buenos Aires)カルロス・マルクッチ
Carlos Marcucci (Buenos Aires 1904 - 57) と、
ピアニストの ピアーナ。そこに歌手も加えていたようだ。
当時、世界大不況のあおりで、タンゴ楽団の活動の場は少なく、
収入も激減していたので、これだけのトップ・プレイヤーたちが、
ほかの仕事の合間を縫って集まることができたのだろう。
このグループの出演はラジオだけ、そして存続期間はかなり短かったと思われる。

グループ名は「ペベーコの5つのエース」という意味。《ペベーコ》は
世界的に売られ、有名だった練り歯みがきのブランド名で、
このブランドがスポンサーになったラジオ番組に出演したのだろう。
ペベーコ歯みがきは日本には入ってこなかったと思うが、
このメーカー(ドイツのハンブルクが本社)のクリームのブランド
《ニベア》は、いまは日本でもおなじみだろう。
ニベアは、ペベーコと同じくらい古いブランドなのだが、
昔の日本には入ってなかった?

セバスティアーン・ピアーナは、彼の作曲した
ミロンガ・センティメンタール Milonga sentimental 』などをヒットさせた
女性歌手 メルセーデス・シモーネ Mercedes
Simone
(La Plata, Prov. Buenos Aires 1904 - 90) に依頼されて、
1930年代後半に、彼女のレコーディング伴奏をした。
彼のピアノと、バンドネオン、ヴァイオリンのトリオで伴奏した。
わたしたちがピアーナのピアノ演奏を聴けるのは、この録音だけである
(トリオでも、他のピアニストによるのもあるらしい)。
このように表舞台に立つことのなかったピアーナだが、
(地味にしていたおかげ?)90歳を過ぎて亡くなるまで頭脳明晰で、
健康を保ち、休みなく作曲と教授活動をつづけていた。

瓦屋根の古い大きな家』のバックグラウンド紹介だけで、
ずいぶん長くなってしまいました。すみません。
息抜きに、カトゥロ・カスティージョセバスティアーン・ピアーナ
(カトゥロから先に)半分ずつ作曲し、ホセ・ゴンサーレス・カスティージョ が作詞した
口笛を吹きながら』をお聴きください。

ほんとうに口笛を入れた名編曲(?)は、
うたっている カルロス・ガルデール のアイディアです。
彼は1ヵ所、原作のメロディの譜割り(音の長さ)を変えて、理論的には間違いでも、
うたうと自然な、天才歌手ならではの改良も加えています。
ここをクリック
ガルデールについては、別記事があります。
カルロス・ガルデールのメロディ
ガルデールが映画でうたった曲


§ 1941年のある日

カトゥロ・カスティージョが、セバスティアーン・
ピアーナ
の家のドアを、あわただしく叩いた。
「大傑作ができた。歌詞と曲がいっしょにわいてきた!」
何事かと驚くピアーナに、カトゥロはうたって聞かせた。
歌詞は、6音節×2句しかない!

Barrio de Belgrano,(ベルグラーノ区)
caserón de tejas.(瓦屋根の古い大きな家)

メロディは、おなじものが2度繰り返される。(下の楽譜)
単純きわまりないが、カトゥロは、この2句、この短いメロディに、
あるひとつの小宇宙が宿ってしまったと感じたのだ。
あんまり自己完結してしまって、
もうじぶんではこれ以上なにも加えられないので、
これをもとにピアーナに作曲してもらって、
1編の歌曲にしたいというのである。



caseron_de_tejas



上の楽譜は4分の3拍子で書いたが、カトゥロがこのモチーフを
最初からワルツのリズムで考えていたかどうか、わたしは知らない。
でも、そこまでは彼の頭の中にあったろうと思う。
タンゴにできないこともないけれど……。
とにかく、ピアーナは、ワルツにして、
大部分がカトゥロのモチーフの繰り返しによる
マイナー(短調)の第1部を作曲(?)した。
最初の部分は、こうなっている――



caseron_de_tejas


おなじ音形のフレーズを繰り返すメロディだが、
和音は変わってゆく。ただし、
これはふつうに「音楽の展開」というのとは、少し違う。
たとえばジャズの和音進行とか
数学的(?)に解説できる展開ではなくて、
主メロディに単純な低音の動きをつけただけ。
それによって自然に和音のひびきが変わってゆく。
こういう手法は、スペイン・ポルトガル語のポピュラー音楽にはよくあり、
機械的な和音進行にはない味を出す、だいじな要素だ。

そして、第2部は完全にピアーナの作曲で、
メジャー(長調)に転調して、第1部と対照的で調和した
素朴ですてきなメロディになっている。
こうして全曲ができたあとで、カトゥロがその音楽に乗せて、
イメージをふくらませて、残りの歌詞を書き、
瓦屋根の古い大きな家』が完成した。

形式名は バルス・クリオージョ vals criollo と付けられた。
バルスとは、ワルツのこと。
クリオージョは、スペインの血を引きながらも
南アメリカに生まれ育った、はえぬきの
土地っ子のこと。
ワルツはヨーロッパ起源だが、ラテンアメリカ
各地でも大流行し、すっかり永住権を得てしまった。
そして民俗音楽ともフュージョンして、
ラテンアメリカならではの感覚・味をもったワルツが
今日でも、各地でたくさんつくられている。
そういう曲をバルス・クリオージョとよぶ。

*ペルーのワルツについて「男性に捧げるワルツ」に書いていますので、
興味があったらお読みください。ここをクリック


§ ベルグラーノ区、瓦屋根の古い大きな家


「ベルグラーノ区、瓦屋根の古い大きな家」
――これだけで、カトゥロには
ひとつの世界が完全に見えてしまった。
ほかのことばはいらなかったらしいが、
わたしには、もひとつわからないので、すこし調べることにした。

まずベルグラーノ区だが、ブエノスアイレス市の北部、
大河ラプラタに面している。
ひとくちにベルグラーノといっても、いくつかの地区にそれぞれの顔がある。
俗にバホ(下)・ベルグラーノと呼ばれるあたりは、
隣接するパレルモ区の競馬場の関係で、
多くの厩舎(きゅうしゃ)があった。
この地区名をタイトルにしたタンゴもある、
庶民的な一角だったが、20世紀中に厩舎はすべて移転して、なくなった。
その他は長いあいだ高級住宅地というイメージの区だ。
タンゴ『口笛を吹きながら』『スール(南)』などが
うたっている、リアチュエロ川の側の貧しい地域とは対極にある。
リアチュエロ川の氾濫は、タンゴの歌詞にも出てくるが、
海のようなラプラタ河だってもちろん水害を起こした。
そういう地帯は、やはり南のように貧しい者の土地だったけれど、
堤防工事や土砂を埋めることで(ほんとの「地上げ」だ)
土地を高くして、やはり高級住宅地に変えられた。
こんなお金持ち地帯ベルグラーノ区は、19世紀なかばくらいまでは、
雑木林や草むらだらけの、宿場(しゅくば)の町のようだった。
19世紀末から、ここには、木に囲まれたカセローン
(大きな家、屋敷)が次々と建てられ、
畑や果樹園にかこまれたお屋敷町という感じかな?
このころのカセローンはもう崩れたり、こわされたりして、
今日では、ただ1軒だけ残っているそうだ。
そのうちに、ベルグラーノ区は、ブエノスアイレス市の北側の交通のターミナルとして、
鉄道駅もふたつあって発展し、高級住宅地となった。
「タンゴの街」とは、とても呼べないことは、たしかだ。
でも、ブエノスアイレスで深く愛され、
歴史を感じさせる地区ではある。

ベルグラーノ区については、ネット百科事典Wikipedia
英語版など多数のサイトがあります。
barrio Belgrano のキーワードで、検索してみてください。
スペイン語では、詳細きわまりないサイトがいくつかありますが、
そのひとつでは、この区の歴史散歩の詳細ガイドと地図・写真、
はては、この区で見られる樹木の植物学的解説と写真まであります。
あんまり長い(本1冊分くらい?)ので、わたしも読まずに眺めただけですが、
ブエノスアイレスっ子の街への思い入れの深さを実感するため、
のぞいたらいかがですか? ここをクリック
いちばん下のほうにある siguiente の文字をクリックすると次ページ(?)です。

とにかく「ベルグラーノ区、瓦屋根の大きな家」というだけで、
カトゥロ・カスティージョの心には、説明できないが
確固として存在するイメージが命をもった。
セバスティアーン・ピアーナに音楽を完成させてもらって、
それに乗った物語は、もう自然に湧き出てきたらしい。

Barrio de Belgrano . . .!
Caserón de tejas . . .!
Te acordás, hermana,
de las tibias noches
sobre la vereda . . .?
Cuando un tren cercano
nos dejaba viejas,
raras añoranzas,
bajo la templanza
suave del rosal . . .
ベルグラーノ区……!
瓦屋根の古い大きな家……!
覚えていますか? お姉さん
歩道の上での
数々のあたたかい午後のこと……?
そのとき近くを通る汽車が
わたしたちのところに置いていった、
古い めずらしい追憶の数々を
あのバラの木の やさしく
しとやかな立ち姿の下に……

おなじ部分(マイナーの第1部前半)の
2回めの歌詞では――

Barrio de Belgrano . . .!
Caserón de tejas . . .!
Dónde está el aljibe . . .?
Dónde están tus patios . . .?
Dónde están tus rejas . . .?
Volverás al piano,
mi hermanita vieja
y en las melodías
vivirán los días
claros del hogar . . .
ベルグラーノ区……!
瓦屋根の古い大きな家……!
アルヒーベ(水くみ場)はどこに行った?
あなたの中庭たちはどこに行った?
あなたの窓格子はどこに行った?
あなたはピアノに帰ってくるでしょう
わたしの年とったお姉さん
そして数々のメロディの中に
あの日々が生きてゆくでしょう
わが家の晴れた日々が。

中庭が複数なので、なかなか大きなお屋敷だとわかる。
複数形を日本語に訳すと、ぎこちなく、
不自然だけれど、仕方ない。むずかしいですね。


aljibe

アルヒーベ
 右写真は、ブエノスアイレス州の史跡のような町にある、リゾート・ホテルのパンフレットから無断で取ってきた。ちょっと立派できれい過ぎるが、丸い井戸のようなのがアルヒーベ(枠などが金属細工で、装飾をほどこしたのもあった)。地下水を汲むのではなく、雨水を屋根から、樋(とい)、管や溝などを通して、みちびいてきて貯めてある。
 ベルグラーノ区の「古い大きな家」は、こんな真っ白な植民地風ではない、フランスやイギリスのスタイルの洋館だった。この町の住人は、水道が通るようになっても、アルヒーベのほうを好んだそうだ。アルヒーベのある中庭には、バラの木があるほかに、雑草も生え、常緑樹が植えられていたろうと思う。

第1部の後半の歌詞は、1回めも2回めも似ているので、
2回めのほうだけご紹介しよう。

Tu sonrisa, hermana,
cobijó mi duelo,
y como en el cuento
que en las dulces siestas
nos contó el abuelo,
tornará el pianito
de la sala oscura,
a sangrar la pura
ternura del vals.
あなたの笑顔は お姉さん
わたしの心のいたみをあたたかく包んでくれた
そして甘い昼寝の時間に
おじいさんが話してくれた
あのお話にあったように
暗いホールの小さなピアノが
もどってくるだろう、
あのワルツの純粋なやさしさを
血として流そうと……

この歌詞につづいて、長調に転じた第2部で、とつぜんよみがえるのは、
むかしも純粋なやさしさの血を
流していた1曲のワルツである。
この古い大きな家には、うたっている人
(男性であっても問題はないが、常識的?には
女性と感じられる)と、そのお姉さん、
このふたりきょうだいのおじいさん、
まだ歌詞に出てこないが、ふたりのママ、
それに加えてピアノの中に住んでいる
ワルツがひとり――という家族構成だったわけだ。

Revivió . .! Revivió . .!
en las voces dormidas del piano
y al conjuro sutil, de tu mano,
el faldón del abuelo vendrá . . .

Llamaló . . .! Llamaló . . .!
Viviremos el cuento lejano,
que en aquel caserón de Belgrano
--venciendo el arcano--
nos llama mamá . . .!
ふたたび命をもった! ワルツがふたたび命をもった!
ピアノの眠り込んでいた声たちの中で、
そして あなたの手のこまやかな魔術にひきよせられて
おじいさんのフロックコートの裾が舞ってくるだろう……

彼を呼んで……! 彼を呼んで……!
わたしたちは 遠いお話を生きましょう
だって あのベルグラーノの古い大きな家で
――閉ざされた神秘を打ち破って――
ママが私たちを呼んでいる……!

§ 神秘をもったワルツ

3分間のワルツのために、ずいぶん長々と書いてきたが、
峰 万里恵さんはこの曲をうたう前に、こんなことを
ぜんぶわかっていたわけではない。
それどころか、ほんとになんにも知らず、
歌詞のごく小さな断片が、かすかに頭の中にあるだけだった。
でもどこかで聴いたメロディと、歌詞のひびきのこだまのようなものが、
記憶の底に沈んで残っていたらしい。
あるとき、とくにきっかけはなく、この曲をうたいたくなり、
全曲の歌詞の意味を調べ、アルゼンチンの歌手の録音は参考にせずに
(以前に聴いたことはあるわけだが)、ひとりで
研究をはじめた。
「あっ、やっぱり亡霊が出てくるんだ」と、
喜んでいる。万里恵さんは、亡霊の出てきそうな歌が
大好きなのだが、この曲はほんとうに亡霊が出てくる。
ぜんぶ意味がわかるような曲、神秘のない歌は
うたいたくないという万里恵さんは、
この曲の音のひびきから、「なにかある」と直感して、
そのカンが当たって大満足している。
ここまで延々とわたしが書いたことは、
この曲を感じるためには、なんの必要もないことだろう。
わからなくても、底知れない神秘が、
こころよい3分間のワルツに宿っていると感じさせる。
峰 万里恵さんはダンスしているおじいさんの姿を
見ながらうたっているような気がする。
わたしはギター伴奏の練習をしているとき、
おばあさん(誰かな? ママ?)の亡霊が出てきて怒られる。
「わたしのピアノは、そんなにモタモタしていませんよ!」
(亡霊はスペイン語も日本語も必要とせず、意思を伝えるのだ)
歌詞では、おばあさんがピアノを弾いていたとは
言っていないけれど、わたしには、そう感じられる。
とにかく年配の女性――ショパンでも弾いていたんですかね?
がんばらなくっちゃ。


瓦屋根の古い大きな家』をお聴きください。
峰 万里恵(うた)=オリヴィエ・マヌーリ (バンドネオン)=
齋藤 徹(コントラバス)=高場 将美(ギター)のライヴです。
ステージ上のマイクでの、記録のためだけの録音で、
さらに圧縮したため、音質や音量バランスに不満がありますが……。
瓦屋根の古い大きな家 Caserón de tejas2.4MB)。
(この曲をやるよといったら、オリヴィエは「あぁ、ブルジョアのタンゴだな」と
鼻で笑いましたよ。でも、ずいぶんうれしそうに弾いてました。
「リズムはフランス風になるよ」とか言って……。
録音ではマイクの位置の関係でバンドネオンの音に消されてますが、
ナマの音では、ギターは流麗でない――アルゼンチン風(?)――3拍子を
もう少し主張しております)。


「うたを もっと 感じるために」

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© 2008 Masami Takaba


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