「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美



アマーリアさんの美学と倫理
――歌詞の改訂・監修者として



ポルトガルが生んだ、世界史上最高の女性歌手のひとり
アマーリア・ロドリーゲスAmália Rodrigues (Lisboa 1920 - 99) さんは
作詞の才能もすばらしかった。
子どものころから、詩に対する感受性がすぐれていた。
おとなが難解と思う詩でも、すぐ感じ取ったので
小学校の先生にほめられたという。
まぁ、かえって学問や理屈にすぐれている人は、
詩を「理解」しようとして、わからなくなるのだが……。

日本で「詩」というと、文字に書かれたものを思い浮かべるが、
スペイン語やポルトガル語の世界では、ほとんどの場合、
詩は根本的に声に出して語られるものだ。
音のひびきは、しばしば、ことばの意味よりも重要だ。
そしてまた、詩と、うたうための歌詞は
微妙にちがう。アマーリアさんも
「わたしは詩人ではありません。でも歌詞ぐらいならつくれます」と言った。
アルゼンチンの作詞家 オメーロ・エスポーシト Homero Expósito
(Campana, Prov. Buenos Aires 1918 - 87 Buenos Aires) は、
「作詞家はみんな、たとえ少しでも、
詩人の魂をもっている。でも、
いい詩人で歌詞のつくれない人はたくさんいる」と言った。
わたしなりに言い換えると、「歌詞は詩の1種だが、
詩は必ずしも歌詞になれない」ということだろう。

ファドという音楽ジャンルは、スペインのフラメンコと同様に、
「詩」の1種である歌詞をうたうことから生まれた。
詩のひびきや感情が、ほかのなによりも尊重される
(はずだ)。
ファドの化身みたいに思われている男性歌手
アルフレード・マルスナイロ(マルセネイロ) Alfredo Marceneiro
(Lisboa 1891 - 1982) は、小学生のとき
読本と文法が成績抜群だったそうだ。
詩というと、文法は関係ないように思われるかもしれないが、
わたしの知っているスペイン語とポルトガル語の詩では、
文法は非常に大事だ。
ひとつのことばが、どっちを向いて、何を言いたいのか、
それを感じさせるのが文法なのだ。
詩では、順序立ったこまかい説明は長くなりすぎて、
ことばのひびきや流れによくないので、
厳密な文法で、ことばの立ち場・状態を明確にする。
文法もまた、理解するというより
「感じる」ものなのだ。
マルスネイロは、詩はつくらなかった
(メロディはつくった)けれど、
街で聞いたうたの歌詞や、語られる詩や、芝居のせりふなど、
すべて暗記してしまったそうだ。
ことばの受け止めかたの天才だったことは間違いない。

この記事と直接の関係はないのだけれど、
マルスナイロのことを少しだけ紹介しておこう。
マルスナイロのお父さんは靴作りの職人だった。
故郷の村ではブラスバンドのメンバーだった。
お母さんは、すばらしい民謡の歌い手だったそうだ。
マルスナイロが13才のとき父が亡くなり、
彼は学校へ行くのをあきらめて働いた。
プロのファド歌手になってからも、長いあいだ家具作りの職人として
働いていた。自営業ではなく、海軍省の工場につとめていた。

*マルスナイロというのは、姓ではなく、ふつうのことばで「家具職人」という意味の芸名。

マルスナイロは、「(今日の)ファドを創ったのは、わたしだ。
わたしとアルマンディーニョだ」と公言した。
まんざら嘘ではない。
アルマンディーニョ Armandinho (Lisboa 1891 - 1946)
ギターラ(ポルトガル・ギター)奏者で作曲家、
そして1920年代後半に、ポルトガルで
作者の権利を守る作詞作曲家協会ができてから、
19世紀から伝わるファドのメロディを調査・収集し、
きちんと楽譜にして定着させた。模範録音も(そんなに多くないが)
残している。後年のことだが、マルスナイロのつくったメロディも、
アルマンディーニョが楽譜にして著作権登録した
(自作以外は権利を主張せず、無償で)。

マルスナイロは、ファドを淡い光のなかで歌った最初の人だそうだ。
たぶん1920年のあるとき、あるサロンでの会話で、
名高い詩人が「詩の語りで泣かされることはあるが、
うたわれると、感動がなくなってしまう」と言った。
マルスナイロは反論して
「じゃぁ、うたで泣かせてやる」ということになった。
でも、崇高な気持ちのファドをうたうには明るすぎるので、
部屋の明かりはぜんぶ消して、
ろうそくを持ってこさせて、薄明かりのなかでうたったのが最初。
当時はアセチレン・ランプで、光を弱める調節ができず、
まぶしくて気分が出なかったからだそうだ。
もちろん詩人も、他のお客も、
薄明かりのなかでのマルスネイロのうたに感動して涙を流した。
(いま、ファドの店が暗いのは、これを踏襲しているのだが、
誰がうたってるかわからないほどの照明(?)は、
行き過ぎだと思いますが、どうでしょうね?
マルスナイロの場合と、趣旨も、照明設備もちがいますよね)
マルスナイロが悪しき(笑)慣習をつくった
最初に暗がりでうたった曲をご紹介しておこう。
«Oh! Águia»(おぉ、鷲(わし)よ)、
マルスナイロのいちばんお気に入りの詩人 エンリーク・レゴ
Henrique Rêgo (Lisboa 1885 - 1963) がつくり、
メロディは《ファド・バカリャーウ》と呼ばれる伝承曲を使った。
通称をバカリャーウ(鱈=タラ)というギターラ奏者
ジョゼ・アントーニオ・アウグーシュト・シウヴァ José António
Augusto Silva
(1880 - 1935) のつくった、あるいは伝えたメロディだ。

と、書きましたが、このメロディは
バカリャーウがうたったことで有名になり
(歌詞がとても良かったのでしょう)、
そこで「バカリャーウのファド」と呼ばれるようになったのだそうです。
陰に隠れてしまいましたが、作曲者は
アルマンディーニョとのこと。
<出典:NERY, Rui Vieira, Para uma História do Fado, Lisboa: Público/Corda Seca, 2004>

Oh velha águia altaneira
Vem aliviar-me, vem
Do mal que me vem o ferir
Vê se ao céu me transportas
Para de beijos cobrir
A alma de minha mãe
おぉ 高く飛ぶ 老いたる鷲よ
わたしの不幸をやわらげに来ておくれ
わたしを傷つけにくる不幸から救っておくれ
わたしを空に運んでいけるかどうか やってみておくれ
そうしたら わたしはキスで おおいつくすのだ
わたしの母の魂を
なかなか本題に入れませんが、寄り道ついでに、エンリ−ク・レゴを紹介した
ポルトガルのブログを見てください。
ポルトガル語ですが、レゴの写真があります。そして、
レゴの詩をマルスナイロがうたうのが聴けるリンクがあります
(プレイヤーのイラストがありますから、矢印のところをクリック)。
『おぉ! 鷲よ』とおなじように、母の愛をうたった曲です。
ここをクリック

また、マルスナイロは、ファドを立ってうたうことの創始者でもある。
1921年、シアード・テラス(映画館)に出演したときが、
ファドを立ってうたった最初になった。それまでは、
酒場はもとより、サロンや劇場でも、
ファドの歌い手は椅子に腰掛けてうたっていたので、
後ろのほうのお客は見えないので立ち上がったりして、
別のお客と、もめごとになったりしていた。
小さなことのようだが、ファド歌手の存在を
正当に評価させるのに、画期的なことであった。
薄明かりでうたうのも、立ってうたうのも、マルスナイロが前々から考えて
計画したのではなく、その場の思い付きである。
それが定型になってしまったわけだ。
偉大なアーティストとは、そういうものですね。
(マルスナイロが「わたしが、いまのファドをつくった」と言ったのは
初めて暗い照明でうたったとか、立ってうたったという
次元の話ではありませんよ)


§ ペルセギサォン

さて、わたしがこの記事を書こうと思ったきっかけは
(かねてから、アマーリアさんの歌詞選びについて思うことがあったので)、
峰万里恵さんが、«Perseguição»ペルセギサォン)という曲を
うたいたくなったからだ。
この題名は、日本では『追求』となっていたことがあるが、
曲の内容にはあまり合っていない。
ペルセギサォンは「追跡」とか「迫害」という日本語が
ぴったりのこともあるが、この曲では、やはり少し意味がずれてしまう。
ようするに「しつこく追いかける、追いまわす」といったニュアンスの名詞だ。
歌詞は、こんな風にはじまる。

Se de mim nada consegues,
não sei por quê me persegues
constantemente na rua.
Sabes bem que sou casada,
que sou sempre dedicada
e que não posso ser tua.
わたしから得るものはなにもないのに
わたしにはわかりません どうしてあなたが わたしを追いまわすのだか
いつでも どこでも 街の通りで。
あなたはよく知っている わたしが結婚していることを
いつも献身的な妻であることを
決してあなたのものにはなれないことを。

この曲をうたっていたのは女性歌手 マリーア・アリース
Maria Alice (Figueira da Foz 1904 - 94 Lisboa)
1920年代後半か30年代のヒット曲、
その後もずっと、彼女の最高のレパートリーとして
広く愛されつづけていたようだ。
マリーアさんは、78回転レコードの時代に、いちばん
多数の録音をのこした歌手だそうだ。
彼女の音楽学校での同級生の兄である
ヴァレンティン・ド・カルヴァーリョ Valentim de Carvalho
(Lisboa 1888 - 1957) と結婚したことが、
多量の録音につながったのだろう。
もちろん人気があって、売れたからだが

ヴァレンティン・ド・カルヴァーリョは、1914年に、
19世紀前半からあったドイツ人の楽器・楽譜店を買い取り、
やがて楽譜出版、ポルトガル初のレコード録音に進出。
1920年代から長いあいだ、ポルトガルの音楽産業を個人で独占する
事業家だった。今日も、マルチメディア産業の一角で、
メガストア、TVや録音スタジオなどに、ヴァレンティンの名前が残り、
尊重されている。ただし事業の実体は、
多国籍大企業に吸収されたりして、もう個人会社のものではない。

ペルセギサォン』の作曲者 アヴェリーノ・ド・ソウザ
Avelino de Sousa (Lisboa 1880 - 1946)
14才のときからファディーシュタ(自作の歌詞でうたった)で、
後に大衆演劇の脚本家として活動した。
この曲もかなりなメロドラマ調ですね。
メロディは、ファディーシュタ(歌手で、ギターラも弾いた)
カルロシュ・ダ・マイヤ Carlos da Maia (Lisboa 1878 - 1921)
つくったものを転用した。このメロディは、
今日でもほかの歌詞を乗せてうたわれる、人気あるものだ。

最初の歌詞につづいて、彼女を追いまわしているのは、
お金持ちの男であること、いっぽう彼女の夫は心清く貧しい男であることが語られる。
そして最後の歌詞は――

Como a sentinela, alerta,
noite e dia sempre esperta
na perdição do sentido;
eu sou a todo instante
sentinela vigilante
da honra do meu marido.
歩哨(ほしょう)のようにわたしは しっかり目を開いて
昼も夜も いつも注意深く気を配り
感覚もなくしてしまっている
わたしは どんな瞬間にも
見廻りの歩哨
わたしの夫の名誉を守って。

「歩哨」というのは軍隊用語で、
もう死語になっていると思うが
――死語になってよかった!――
敵を見張る役目の兵士のことだ。
万里恵さんにこの曲を聴かされて、わたしは
歩哨が出てきたとき思い出した。
そういえば、前に聴いたことがある!
そして、軍隊用語が出てきたとき、びっくりし、
同時に嫌悪を感じて、もう聴かなかった。
しかし、非常に印象的な歌詞で、
アリースさんの時代には、大いに受け、
「意外な、でもうまく感情をあらわしたことば」だと
共感もされたろうということは、わたしにも理解できる。
6行のなかに、2度も「歩哨」ということばを使って、
意表をついた発想を強調している。
わたしでさえも、1度しか聴かなかったのに、
歩哨が出てくる女性の歌詞があったことは、忘れずにいたわけだ。

わたしは、そのうちに、アマーリアさんもこの曲をうたっているのを思いだした。
パリのオランピア劇場のライヴ録音、そしてなんと!
アマーリアさんが初めてレコードを録音したのが、
この曲だったのだ(1945年、ブラジル)。
そんなことを、わたしは全然おぼえていなかった。
そこで、もう少し調べてやれと思って、日本で出ている
彼女の聞き書き自伝を読んだら、
この曲はアマーリアさんが初めてスペインに行ったとき、
スペイン駐在のポルトガル大使 ペドロ・テオトーニオ・
ペレイラ Pedro Teotónio Pereira (Lisboa 1902 -72)
リクエストされてうたったのだそうだ。
ペレイラ大使はマリーア・アリースの大ファンで、
ぜひこの曲をアマーリアさんにうたってもらいたかった。
大ヒット曲だから、アマーリアさんも歌詞をぜんぶ覚えていたけれど、
「歩哨」の出てくる1節は、どうしても自分にはうたえないから
省略すると言った。
軍隊用語の出てくる歌詞は、
どんなに内容が良くても、アマーリアさんの美学とは相容れなかったのだ。
それならと、ペレイラ大使はみずから新しい歌詞をつくってくれた。

Rasguei as cartas sem ler
e nunca quis receber
jóias ou flores que trouxesse.
Não me vendo nem me dou,
pois já dei tudo o que sou
com o amor que não conhece.
わたしはたくさんの手紙を読まないで破りました
決して受け取ろうとはしませんでした
あなたがもってくる宝石も花束も。
わたしは自分を売りません 自分を与えません
なぜなら もうわたしは 自分のすべてを与えてしまったのです
あなたには知ることのできない愛とともに。

アマーリアさんは、この新しい歌詞でうたい、
後に録音もしたというわけだ。
ペレイラ大使は、ファシストのサラザール独裁政権の
最重要人物のひとりなのだが、
この歌詞は悪くないですね。
万里恵さんも、この歌詞を聴いて
「品がいいね」と感心したが、けっきょくは
マリーア・アリースのオリジナル版を採用した。
古風なメロドラマの雰囲気が気に入ったようだ。
そして、アマーリアさんが削除した部分が、
いちばんひびきが美しく、うたってこころよいとのこと。
それに、まったく時代がかけ離れているので、
軍隊用語にも抵抗感がないみたいだ。
「歩哨なんて、私にはほんとに夢物語の世界だもん」
と万里恵さんはニコニコしている。

マリーア・アリースのうたう『ペルセギサォン』は、
ポルトガルの、あるすてきなブログで聴けます。そこには彼女の写真も載っていますので、
どうぞ ここをクリック


§ これがファド

アマーリアさんのレパートリーのなかで、いちばんファンが多い曲のひとつに
«Tudo isto é fado»これがファド)がある。
これはアマーリアさんが最初にうたった曲ではなく、
初演者は イレーネ・イジードロIrene Isidro (Lisboa 1907 -93) という
なかなか人気のあった女優・コメディアン。
1949年の『大通りの祭日』というレビューの挿入歌だった。
作詞 アニーバル・ナザレー Aníbal Nazaré、作曲 フェルナンド・
ド・カルヴァーリョFernando de Carvalho (1913 -67)――ともに、
レビュー全盛時代の人気作者で、大活躍していた。
アマーリアさんは、前半部分の歌詞は、
完全に削除してしまった。
ことばが死んでいて、なにも伝えない
陳腐な歌詞だからである。
かわりに別の歌詞(たぶん、原作では前半の
繰り返しのときにうたわれたのだろう)を使った。
ただ、不思議なことに、正式な出版楽譜には
アマーリアさんの削除した歌詞が載っていて、
採用した歌詞のほうはない。
CDの歌詞カードで、歌詞が違うと
不審に思われた人が多いと思うが、
これは楽譜掲載の歌詞を転載したからなのだ。
今日、アマーリアさんが却下したほうの歌詞を
うたう人がいるのも不思議だ。
すごく間抜けな歌詞だと、わたしは思う。
この曲に関しては、アマーリアさんの校訂に
絶対服従すべきだと思う。
では、後半、リフレーン部分の歌詞をご紹介しよう。
これは文句なく名作だ。

Almas vencidas,
noites perdidas,
sombras bizarras . . .
Na Mouraria
canta o rufia,
choram guitarras . . .
Amor, ciúme
cinzas e lume,
dor e pecado,
tudo isto existe,
tudo isto é triste,
tudo isto é Fado!
打ち破られた魂たち
失われた夜たち
怪しい影たち……
モウラリーアでは
ならず者がうたっている
ギターラたちが泣いている……
愛 嫉妬
灰と炎
痛みと罪
これすべてが存在する
これすべてが悲しい
これすべてがファド!

世界的にポルトガル音楽の代表となった有名曲
«Lisboa antiga»(古き昔のリスボン=懐かしのリスボン)でも、
アマーリアさんは、平凡すぎる歌詞を削除してしまった。
この曲は、やはりレビュー全盛時代の、
もしかしたら最大の作曲家である
ラウーウ・フェラォンRaúl Ferrão
(Lisboa 1890 - 1953) が作曲した。
たぶん曲が先に出来て、そこに歌詞を当てはめるという
作業だったと思われる。
ふたりの売れっ子脚本家が歌詞を合作したが、
アマーリアさんは、そのうちの片方は
平凡すぎるのでうたわなかった。
わたしの推定では、ジョゼ・ガリャールド
José Galhardo (?? - 1968) が作詞した部分だけをうたっている。
うたいたくないものは、うたわない。
つまらない、美しくない歌詞は、うたいようがない。
――こういう自身の美学にもとづく判断は
ひとつの倫理とさえいえるだろう。
内容のないことばでは、聴く人を裏切ることになるのだ。
どんな大歌手でも、貧弱な歌詞から大きなうたはつくれない。
アマーリアさんは、日本でのライヴ録音で、
モウラリーアは夜』という曲の歌詞を一部削除している。
そのほうが、効果的だからだ。

モウラリーアは夜』については、別記事「ファドとモウラリーア」を
お読みください。ここをクリック


§ わたしの両目は2本のろうそく

次の曲の校訂は、美学とか倫理とかいった
大げさな話ではない。
……昔は(そんなに昔でもないかな)、ファドに限らず
世界のポピュラー音楽で女性の作者はまれだった。
男性の作者たちが、
女性歌手のための曲を作っていた。

ラテンの女性作者たちについて、別記事があります。
ムーチョ・コラソーン(ありあまる心) <中>

アマーリアさんは、うたう本人が女性で主人公になっている曲、
つまり自分が女性としてうたう曲は、
あまり採り上げていない。
先の『ペルセギサォン』などは例外的で、
ふつうは女性も男性もない、人間としての心や、
ある女性を客観的に描いた物語をうたった。
ときには、男性である作者に、完全になり代わってうたった。
後年の自作でも、「女であること」はとくに強調されていない。
ただし、常識的に考えて、
女性としてうたわなければいけないときは、
ちゃんと女性向きの歌詞にした。
アマーリアさんお気に入りの作詞家で、ジョアォン・
リニャールシュ・バルボーザ João Linhares Barbosa
(Lisboa 1893 - 1965) という人がいる。
プロ歌手になったごく最初のころから、アマーリアさんは、いい歌詞を求めて、
彼から曲を買ってうたっていた。

ジョアォン・リニャールシュ・バルボーザは、とても若いころから、
歌詞を売って生計を立てていた。
当時は(その後も長いあいだ)、ライヴでの使用料とか
レコードの印税とかは支払われなかったので、
作詞家という職業は存在できなかった。
歌手に、その人が独占的にうたうための歌詞を、
1曲いくらと定価をつけて売ったわけである。
その歌詞を買った歌手は、適当な伝承のメロディに乗せてうたったわけだ。
ほかの歌手は、その歌詞をうたってはいけない。
(それ以前の段階では、街角の新聞・雑誌のスタンドで、
新作歌詞をたくさん載せた雑誌を売っていた。
ファディーシュタたちのあるものは、その雑誌を買って、
好きな歌詞を勝手に選んでうたっていたわけだ。
1曲が物語としてまとまっているわけでもないので、
あちこちから4行ずつ選んで、つなぎ合わせても問題なかった)
ジョアォンは、1920年代の初めから長いあいだ、
『ギターラ・ド・ポルトガル』というファド専門誌の発行・編集・執筆に
たずさわってもいた。すばらしい民衆詩人で、
ひびきと流れのいい、表現の冴えた、すてきな歌詞を
たくさん書いた。いま彼の生地のリスボン、アジューダ地区には、
彼の名前をつけた通りがある。

そこへ行ってみたい方は別記事をお読みください。『ジョアォン・リニャールシュ・バルボーザ通り

アマーリアさんは、ジョアォンに注文をつけたりせず、
彼が思うようにつくった歌詞のなかから、
彼女がうたいたいものを選んで買ったのだそうだ。
その1曲は、こんな歌詞である。
*サウダードについては、別記事「サウダード/サウダーヂ」をお読みください。

Os meus olhos são dois círios
dando luz triste ao meu rosto,
marcado pelos martírios
da saudade e do desgosto.
. . . . .
Mas para meu desespero
como as nuvens que andam altas,
todos os dias te espero,
todos os dias me faltas.
わたしの両目は 祭壇の2本のろうそく
悲しい光で わたしの顔をてらす
その顔に刻まれているのは 数々の受難
サウダードと失意の受難。
…………
でも わたしを絶望に落とすのは
高い空を行く雲たちのように 手のとどかないもの
来る日も来る日も わたしはあなたを待っている
来る日も来る日も あなたはわたしのところにいない。

この曲のタイトルは «Fado Menor»
ファド・メノール=短調のファド)と登録されていたことも
あったようだが、
これはファドのひとつのメロディの形を指す用語で、
無限に多数の曲が、ファド・メノールなのだ。
だから、混同を避けるために、
副題として、あるいは正式な題として、
歌詞の最初の1句をそのまま使うことが多い。
ところが、ここに問題がある。
リニャールシュ・バルボーザは、女性歌手のために
「わたし」が女性である歌詞もつくったが、
この曲は、アマーリアさんに選ばれるまで
だれがうたうか考えずにいたため、
――感情は女性的だが――「わたし」は男性としてつくったらしい。
だから、原作は、「(女性である)あなたの」両目が、
苦しんでいるわたしの顔をてらす
ことになっている。その歌詞で著作権登録もしたらしい。
そのため、ほとんどすべてのレコードで、タイトルは
«Os teus olhos são dois círios»
(あなたの両目は祭壇の2本のろうそく)となっている。
アマーリアさんは、男性の目で照らされては
居心地が悪いので、自分の目で自分の顔を照らすことにした。
「わたしの目」とうたっているのに、題が「あなたの目」となっているので、
わたしは、じつに困惑した覚えがある。
わたしは、アマーリアさんの改訂が正しいと思うけれど、
女性歌手でも原作を尊重して
「あなたの目」で照らされている人がいる。
まぁ、好みの問題ですが。

アマーリアさんが1語だけ直したことで、
歌詞がさらにすばらしくなった例を、
わたしはもうひとつだけ知っている。
«Malmequer pequenino»(ちっちゃなマウムケール)
という民謡調の曲で、「夢が遠くに運んでいった」というのを
「ファドが遠くに運んでいった」と直している。
これでドラマは、10倍にもふくれあがる。

別記事「花びら」に、その歌詞があります。ここをクリック

§ 川辺の民

アマーリアさんは、「本物の」詩人の曲もうたっている。
そして歌詞として不適当なところは、
遠慮なく直している。どんな偉大な詩人だろうが、
うたうことについては、アマーリアさんのほうが
はるかに実力が上なので、詩人たちも直されて怒らない。
アマーリアさんにうたわれることで広く知られ、かえって喜んだ。
直されても、「なるほど」と感心したに違いない。
いちばん見事な例は、偉大な詩人で、北部のフォルクローレの
振興に尽力したペドロ・オーメン・デ・メロ
Pedro Homem de Melo (Porto 1904 - 88)
詩によるファド «Povo que lavas no rio»川辺の民)だろう。
原作の詩のはじまりはこうだ。

Povo que lavas no rio,
que vais às feiras e à tenda,
que talhas com teu machado
as tábuas do meu caixão
Ha-de haver quem te defenda,
quem turve o teu ar sadio,
quem compre o teu chão sagrado
mas a tua vida não!
(たみ)よ、おまえは川で洗う
祭りの市(いち)へ 露店へ行く
おまえの手斧(ておの)で彫る
わたしの棺にする板を。
おまえを守ろうとする者が出てくるにちがいない
おまえのすこやかな空気をにごらせる者も
おまえの聖なる土地を買う者も
でもおまえの命は ナォン(否)!

これは8行詩だが、この詩のほかの節は6行詩なので、
アマーリアさんは、まずこれを2行削った。
*アマーリアさんが改訂した歌詞は、別記事「フリギア旋法
――ファドとフラメンコ」にあります。ここをクリック

さらに、詩の、全体は歌曲には長すぎるので、
ある節はまるまる削除してしまった。
そして、ある節の前半と、別の後半をくっつけたりする、
大幅な切り張り作業で、1曲の
ファドの歌詞として完成させた。
「あぁでもない、こうでもない」と書いては消し、
アマーリアさんはたいへん苦労したそうだ。
大きな削除をする編集作業には、勇気、
そしてなによりも自分が正しいという確信が必要だ。
アマーリアさんによる歌詞は、わたしのひいき目だろうが、原作よりも
インパクトが強い。そして省略されたことで、
かえって深みと神秘が増している。
この歌詞をうたうために、6行詩を語り、盛り上げるのにふさわしい
ジョアキーン・カンポシュ Joaquim Campos
(Lisboa 1901- 1981 Brasil) のつくったメロディが使われた。

現代ポルトガル文学を代表する詩人・小説家のひとりである
ダヴィッド・モウラォン=フェレイラ
David Mourão-Ferreira (Lisboa 1927 -96) は、
あの『黒い船(暗いはしけ)』の歌詞を書いた人。
彼は、若いころ『ファド』と題する詩を書いた。
1958年の詩集では「アマーリア・ロドリーゲスに捧げて」と明記されている。
ロマンティックで情熱的な作風の彼の、
この詩は、まるでこれからアマーリアさんと駆け落ちするのではないか、
と思わせるほど、せっぱつまった気持にあふれている。
アマーリアさんは、この詩をうたって録音したが、
まるまる1節カットしてしまっている。
そして、ただ1ヶ所、動詞の時制を変えた
(これが「文法」です!)
そのほうが、劇的効果は高まっている。
わたしが思うには、詩人はことばが豊富だから、
おなじような内容を、べつのことばで繰り返し語る。
そのとおりにうたうと、ときには、
表現が空虚になってしまうのだろう。
少ないことばに、思いもよらない深く大きな次元を
与えることがアマーリアさんの美学であり、
歌手としての倫理だったのだろう。
それでは歌詞の、最初の1節と最後の2節をご紹介しよう
(これらは原作のとおりだ)。
曲としてのタイトルは、«Libertação»(解放)、
日本のレコードでは「自由になって」だった。

Fui à praia e vi nos limos
a nossa vida enredada:
ó meu amor, se fugimos,
ninguém saberá de nada.
. . . . .
Em tudo vejo fronteiras,
fronteiras ao nosso amor.
Longe daqui, onde queiras,
a vida será maior.

Nem as esp'ranças do céu
me conseguem demover.
Este amor é teu e meu:
só na terra o queremos ter.
わたしは浜へ行き そこで見えたのは淀んだ藻のなかに
からみついている ひとつになったわたしたちの命。
おぉわが愛よ もしわたしたちが逃げたら
だれも なにも知ることがないだろう。
…………
すべてのなかにわたしは いくつもの境(さかい)を見る
わたしたちの愛への いくつもの境。
ここから遠いところなら あなたが行きたいどこでも
愛はもっと大きなものになるだろう。

天国のさまざまな希望さえも
わたしを連れ出すことはできない。
この愛はあなたのもので わたしのもの
わたしたちは ただこの地上で欲しいのだ。

この曲は、伝統的な作者不明のメロディに乗せてうたわれた。
ただしレコードのクレジットでは、アマーリアさんのギタリストだった
ジョゼ・サントシュ・モレイラ José Alfredo dos Santos Moreira (Lisboa 1909 - 67)
作曲者にしてある。
アマーリアさんが彼にメロディを教わったのかもしれないが、
どうせなら共演者に作曲者印税を(たとえ、ほんのわずかでも)
受け取ってもらいたかったからだろう。
著作権協会は必ず使用料を取り立てるけれど、
作者不明だと、当然だれにも支払いはしない。
さっきの『ファド・メノール』も、その録音に関しては、
サントシュ・モレイラ作曲と登録されていた。
(現在はそういうことはなく、世界的に、著作権団体は
伝承曲の使用料は取り立てない。
「編曲」という登録の方法があるらしいが、わたしはよく知らない)

まだまだ例はあると思うけれど、わたしの知っているのはこのくらい。
最後に、アマーリアさんの改訂で、曲がみごとに生命をもった曲をご紹介しよう。
この場合は、スタジオで録音する時点で、
とっさにひらめいた修正だと推定される。
LPアルバムには、別の歌詞が印刷されてしまっている。
曲は、«Meu amor é marinheiro»
(わたしの愛は海の男)というタイトルだ。
日本のレコードでは「恋人は船乗り」という題だった。
ただし、この「愛」あるいは「恋人」は特定の人間ではなく、
大きな、抽象的な存在のシンボルのようだ。
この「愛」を「自由」と置き換えてもいい。
……まぁ、これは聴くものの受け取り方の問題で、
ただのラヴソングだと考えてもいいのだけれど、
この時期のアマーリアさんは、もうそんな内容の曲は
うたわなかった。ただし、明らかに政治的その他の
主張だけの曲も決してうたわなかった。
彼女の求めていたのは、うたうための、大きな「詩」だったのだ。
この曲は、最初からうたうことを前提に書かれた、
「詩」というより「歌詞」なのだけれど、
最後の部分が弱かった。
前から語ってきたことを、べつのことばで表現していたが、
ちょっと盛り下がってしまう感じ。
ここは、いちばん大事なフィナーレだから、困る。
アマーリアさんは、いっそのこと、前と同じことばを繰り返し、
自分で考えたらしい2行を加えて、
ストレートに訴える歌詞をつくった。
曲の最初と、最後をご紹介しよう。最初の節にも、1語だけ改訂がある。
原作で「彼の心」とあったのを「わたしの心」にしている。

Meu amor é marinheiro
e mora no alto mar.
Seus braços são como o vento,
ninguém os pode amarrar.
Quando chega à minha beira,
todo o meu sangue é um rio
onde o meu amor aporta
meu coração - um navio.
. . . . .
Meu amor é marinheiro
e mora no alto mar.
Coração que nasceu livre
não se pode encorrentar.
わたしの愛は海の男
大海原に住んでいる
その両腕は風のよう
だれにも しばりつけることができない。
わたしのそばにやってくるとき
わたしのすべてが1本の川になる
そこにわたしの愛は着ける
わたしの心を――それはひとつの船。
…………
わたしの愛は海の男
大海原に住んでいる。
自由に生まれた心
それに鎖(くさり)はつけられない。

この歌詞を書いた詩人 マヌエーウ・アレグル
Manuel Alegre (Àgueda, Beira Litotal 1936) は、
社会主義の政治活動家でもあり、
サラザール独裁政権時代には10年間、
アルジェリアに亡命して反体制放送局の番組制作、
アナウンサーをやっていた。
この曲が録音されたときも、アルジェリアにいたと思う
(政府から追われているから、住所不定だが)。
独裁政権が倒れてからポルトガルに帰り、
2006年の大統領選に立候補して、
第2位の票を集めた。
こんな大物の作品でも、容赦なく校訂してしまうのが
アマーリアさんの、さすが!実力。
なお、作曲者は アライン・オウルマン
Alain Oulman (Cruz Quebrada, Lisboa 1928 - 90 Paris) で、
政治・社会主張を同じくするアレグルの
親友だった。アルバムに彼の歌詞を入れるようにしたのも、
オウルマンの考えだった。
亡命している住所不定の人から歌詞を送ってもらうのは、
非常な難業だったらしい。
そして、そんなことは関係なく、人間性の高い歌詞だからという
ただそれだけの理由でうたったアマーリアさんは、
真の偉大なアーティストだと思う。


「うたを もっと 感じるために」

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© 2008 Masami Takaba



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