ポルトガルの歌手 アマーリア・ロドリーゲスさん
Amália Rodrigues (Lisboa 1920 - 99) の
偉大さについて語っていたら、きりがない。
ここでは、彼女がつくった歌詞から、
彼女の少女時代を思いうかべてみたい。
そこでうたっている少女時代の心を、アマーリアさんは
一生もちつづけていた。
アマーリアさんの家庭の事情は省略する。
彼女は少女時代を、リスボンの祖母の家でおくった。
両親は、遠く離れた北のほうに住んでいた。
アマーリアさんはリスボンっ子である。
「都会っ子なんですね」 とわたしが言ったら、
「いちがいに、そうともいえないんですよ」と
アマーリアさんは訂正するのだった。
(わたしがアマーリアさんとお話したのは、約20年のあいだに
20時間にも満たないだろう。
でも、彼女の言ったことはぜんぶ覚えている。
そして、お互いに共感があったと、わたしは思っている)
リスボンは、いわゆる大都会ではない(なかった、と言うべきか?)。
アマーリアさんがくらしていた、おばあちゃんの家には
庭とも呼べないが空き地があったし、
まわりは野原のようなものだった。
「蟻(あり)の行列を、ずっとたどっていったり、
学校から帰ってくると、ひとりで、
原っぱで長いあいだ遊んでいました」
「かむと酸っぱい草があってね。
わたしは大好きで、見つけたら食べていました」
(「あっ、ぼくもスカンポをよく食べた」
と、共通点を見つけて、うれしくなるわたしでした。
あるとき、ホテルのレストランで、
紅茶についてきたレモンを、
ふたりとも、そのままチューチュー吸って食べたので、
まわりの人に笑われたことがある)
アマーリアさんが60才くらいのときつくって
録音した歌詞をご紹介しよう。
作曲は カルロシュ・ゴンサーウヴシュ Carlos Gonçalves。
«Sou filha das ervas»(わたしは草たちの娘)
――日本発売のタイトルは「野に咲く娘」である。
「草たち」なんていう日本語は、ない。
でも、アマーリアさんにかぎらず、詩人たちは
植物にも、あるいは無生物でも、
魂を、ときには感情さえ認めている。
歌詞に出てくる「サラマーゴ」は、
アブラナ科の植物 Raphanus raphabustrym で
全体の形とか、小さな花のようすとかは、ワサビに似ているらしい。
また、「真実の愛」というのは、
もしかしたら、花の名前なのかもしれない。
この曲は有名な «Lágrima»(涙) の
入ったアルバムにあった。
わたしは初めて聴いたときから大好きで、
後に峰 万里恵さんに聴いてもらったら
彼女も、歌詞の気分やひびきが気に入って、
うたってくれることになった。とてもうれしい。
わたしは、ほとんど自分がつくった曲のような気になっている(大笑い)。
では、リフレーン(繰り返し部分)の歌詞を
ご紹介しよう。ここに出てくる「アゼーダ」が
スカンポに相当する(?)植物で、
ブラジルの辞典によれば、食用に栽培されているらしい。
ほうれん草のように蓚酸(しゅうさん)を多量に含み、
ヴィタミンCの補強に食べるとのこと。
種子はビスケットやパンになるとも書いてある。
少女アマーリアさんが出会ったのは、その野生種で、
ただ酸っぱいだけである。
アマーリアさんは、蟻たちを追いかけた後に
(おなじ時期からかもしれませんね)
歌たちのあとも追いかけた。
ここでの「歌」は、ポルトガル語で カンティーガ
cantiga――町や村で、風に乗って
流れているような歌を指す。日本語で
「小唄」とか「唄」と置き換えられることも多い。
場合によっては「民謡」「古謡」ということばも当てはまる。
その訳語の気持ちはわかるが、
わたしは、日本的な言いかたにちょっと抵抗があるので、
いっそのこと無色透明の「うた」とした。
さて、アマーリアさんがプロのファディシュタになった最初のころ
(19〜20才)つくった歌詞がある。
ステージやレコードでは、タイトルは «Fado Mouraria»
(ファド・モウラリーア)あるいは単に «Mouraria» だった。
これは伝統的な形式(メロディのパターン)の名前だから、
無数の曲に当てはまってしまう。
副題みたいになっている«Corria atrás das cantigas»
(わたしは歌を追っかけてました)をタイトルにしないと
まぎらわしいと思うけれど、むかしは形式名を先に書くほうが、
一般的だった。また、アマーリアさんは
自分で歌詞を作ったことは言わなかったので、
人は伝統的スタイルによる作者不明の歌詞だと
思っていたのだろう。
実際はアマーリアさんのオリジナルな作詞で、
ファド・モウラリーアのスタイルのメロディでうたったのだ。
この曲は、伝統的な詩形で、上手にできた、
素朴で真実を伝えてむだがない、
みごとな民衆詩である。
歌い手が自分を語っているのだから当然ともいえるけれど、
音のひびきもたいへんこころよい。
19世紀の作者不明のファドみたいな古風さも
魅力だ。――と、アマーリアさんを崇拝するわたしは
絶賛するのである。
いい歌詞でしょう?
アマーリアさんは不必要にへりくだることはなかったが、
自分をえらそうに言うことも決してなかった
(彼女の偉大さは、だれでも見ただけでわかったので)。
でも自分でとても得意に思っていることがあって、
他人にも、うれしそうに話した。
それは、ことばの感覚がたいへんすぐれていたことだ。
小学校に入ったばかりのころでも、
おとながむずかしくてわからないという詩でも、
すぐに直感で理解してしまったので
――ことばの具体的な意味は知らなくても――
先生にたいへんほめられたそうだ。
プロの歌手になってからも、
スペインのフラメンコ調歌謡も、メキシコのランチェーラも、
イタリア方言のタランテッラも、
ほとんどのネイティヴの歌手たちよりも魅力的にうたった。
英語でも録音し、フランス語の曲はそれほどうたわなかったが
会話のほうは、わたしには完璧には聞こえた。
もちろん少しはポルトガル語なまりの外国語だが、
発音・ひびきの核心をとらえていた。
ことばの魂に入っていたのだ。
そんな人だから、作詞家としても一流になれた。
若いころはうたうほうが忙しくて、
あんまり歌詞をつくることはなかったようだが……。
この歌詞でいう「ファド」は、うたのジャンルの名前であると同時に、
運命・宿命といった意味でもある。
日本発売では『洗濯』という、
あまりにも単純化されたタイトルになっていた
«Lavava no rio, lavava» は、
アマーリアさんが重い病気の手術のあと
毎日、死と対面してベッドに横たわっていた時期に、
だれに見せるわけでもなく
ノートに書きとめていた詩のひとつである。彼女は60才近かった。
そのノートを見つけた付き添いの女性 エシュトレーラ Estrela さんが、
感激して、ファドにしてうたってほしいと望み、
アマーリアさん作詞の10曲を集めたアルバムができた。
これらをうたうことで、アマーリアさんは、
生きつづける勇気と活力を取り戻した。
この曲には、ギターラ(ポルトガル・ギター)奏者
フォントシュ・ローシャ Fontes Rocha さんが、
彼の最高傑作と呼べるすばらしいメロディを
付けている。アマーリアさんとの録音で、
彼の弾く間奏は、うたのメロディ・ラインを基にした別メロディで、
それも比類ない美しさだ。
わたしはいつ聴いても、
うたにも、ギターラにも、
泣かされてしまう。
少女アマーリアさんとお母さんがいっしょにくらした時間は、
先に書いた事情で、非常に少なかったと思う。
これは、あくまでも「詩」である。
わたしは、自分が、たった1度だけ(!)
冬の夜明け前に、川へ米をとぎに行ったときの
凍った手の痛みをあざやかに思い出す。
山村の貧しいくらし……
悲しい思い出が、いまでは美しく感じられる。
これに付け加えることばは、もうありません。
この曲はファドではなく、またアマーリアさんが
作詞したのでもない。
アマーリアさんの両親の故郷、ベイラ・バイシャ地方の民謡だ。
日本のレコードでは「私が少女だった時」という題だった。
曲はいわゆるスペイン調、フリギア旋法(ミの旋法)で
できている。だから初めてレコードで聴いたとき、
スペイン好きのわたしには印象的だった。
でも、ただそれだけ……
アマーリアさんのうたは短く――それは民謡だから
仕方ないとしても――うたの後に、うたよりも長い
大げさなオーケストラの演奏が付く。
わたしには、それは安っぽいスペイン調で、
聴いていて腹が立った。
いまになって得た知識では、この民謡アルバムの編曲指揮者
ジョアキーン・ルイーシュ・ゴムシュ Joaquim Luís Gomes は
ポルトガル音楽界では大物のひとりのようだが、
あまりにもアマーリアさんに失礼な編曲ではないか!
さて、この録音を聴いてから10数年の時が流れ、
わたしは無理やり(というほどでもないが)プロデューサーに
頼み込んで、アマーリアさんの日本公演の
裏方通訳をしていた。
すると、プログラムにこの曲が入っているではないか。
「どうして?! もっとほかに、やるべき曲があるのに」と
また少し腹が立ったが、舞台の袖で「どうなることか」と聞き耳を立てていた。
そしたら、なんと! 2番があった。
すばらしい歌詞!
わたしは感激して涙を流した。
けっきょく、アマーリアさんは、この美しく情熱的な2番の歌詞を
スタジオ録音する機会を失ってしまったようだ。
こちらの歌詞もうたったライヴは、DVDにもなっている。
© 2008 Masami Takaba