カルロス・ガルデール Carlos Gardel は、タンゴの歌いかたを発明した人だ。
最初のタンゴ専門歌手であり、だから時代を超えて、いつも最高峰である。
彼がうたう以前は、タンゴは踊るもので、うたうものではなかった。
例外的にうたわれるときは、スペイン風のオペレッタあるいは
ミュージカル・コメディ(そんな呼び名はなかったが)と、
そこから流れてきた大衆ヴァラエティ劇場のスタイルだった。
ガルデールは、うたうにふさわしいタンゴ曲がなかった時期には、いわゆる民謡歌手だった。
うたいたい歌詞が出てきたとき――1917年ごろ、
«Mi noche triste»(わが悲しみの夜)という曲――
ガルデールは、アルゼンチン民俗音楽の中でも語り物の要素が強い
大草原の即興詩のうたいかたのスタイルを採り入れた。
その曲も、もともと既成の演奏用タンゴのメロディを借りて、
芝居のひとりセリフのような歌詞を語るものだった。
また首都ブエノスアイレスも大草原の一隅であって、ことばの違和感はなかった。
ガルデールは、曲の背景に合わせて、よりブエノスアイレスの色や感情を濃くして、
伝統の即興詩スタイルをタンゴにしたのだった。
さて、峰 万里恵さんが、ガルデールのレパートリーから、以前から心を惹かれていた
«Melodía de arrabal»(場末のメロディ)をうたうことにした。
1932年にパリでつくった映画の主題歌だ。
作曲者の名前にガルデールとクレジットされているが、彼は実際の作者ではない。
エドゥアールド・ボネッシ Eduardo Bonessi という人がつくって、
ガルデールにプレゼントしたのだ。
彼にうたってもらいたいだけの理由でつくった。もちろん
彼のうたいかたを全面的に生かすようにつくってある。
だからガルデール自作といわれても、おかしくないし、
人々にそう言ってもらいたくて、ボネッシは自分の名前は出さなかった。
それに、ボネッシの原作(出版された楽譜)を見ると、
ガルデールの録音とメロディの細部がちがう。
ボネッシが音楽的にちょっとヒネってつくったところを、
ガルデールはストレートに、自然で素直な流れに直している。
簡単にしてしまったわけだが、かえってそのほうが歌の魅力が増している。
ガルデールはえらい! 偉大な表現者はクリエイター、「作者」でもあるのだ。
それから、和音など伴奏の形も、原作を簡略化している。
これは、ガルデールと伴奏ギタリストたちの両方の意見で、すっきりさせたのだろう。
わたしは峰さんの伴奏をするにあたり、出版楽譜から読み取れる
原作者ボネッシのイメージしていたスタイルにしたり、
現代の歌手(というよりは編曲者) たちのように前奏など新しく付け加えてみたけれど、
けっきょくは、ガルデールと彼のギタリストたちの判断が正しいのだとさとって、
なるべくそのまま真似ることにした。
音楽的な洗練は、歌い手を助けるどころか
自由を奪って、歌のじゃまをすることになる。
それはさておき、作曲者ボネッシは、ブエノスアイレスで
ベル・カント (イタリア・オペラの声楽) の教授をしていた。
ガルデールも生徒で、発声を習っていた。
もともといい声だから、いい先生につけば、さらに素晴らしい歌手になる。
ガルデールはパリに行くとき、大西洋航路の客船の船室にオルガンをもちこみ、
ボネッシ先生のレッスンを受けながら海を渡った。
えらいでしょう? カルロス・ガルデールは天才歌手であると同時に
天職をまっとうする責任を果たすプロ中のプロだった。
アーティストはヴィジュアル要素も大事だから、
ジムに通って減量した。そういう努力は惜しまなかったのである。
『場末のメロディ』に歌詞をつけたのは
マリオ・バティステッラ Mario Battistella という人だ。
イタリア生まれで、パリで大学に行き、20代でブエノスアイレスに来て、
レビューの台本とか、その場かぎりで忘れられる歌詞とか書きまくった。
この時代はパリにいて、無声映画の字幕を
フランス語からスペイン語やイタリア語に訳す仕事をしていた。
ガルデールがパリに来たときは、付ききりで通訳をしていたと思われる。
(バティステッラは数曲の忘れられないタンゴの作詞者として歴史に残っている)。
『場末のメロディ』作詞者としてもうひとり、
アルフレード・レペーラ Alfredo Le Pera の名もクレジットされているが、
彼は映画の脚本作家。バティステッラの歌詞を少し手直ししたかもしれないが、
この曲の場合は大きな役割は果たしていないと思う。
カルロス・ガルデールはほんとうに作曲家でもあった。
とくに、『場末のメロディ』などの後に、アメリカに行って撮った
主演映画の挿入曲のメロディは、ほとんど自分でつくった。
峰さんのレパートリーでいうと、«El día que me quieras»(想いのとどく日)、
«Volver»(ボルベール=帰郷)、
«Sus ojos se cerraron»(閉ざされた瞳)といった曲だ。
ガルデールの作曲メソッドは――
まずドラマのなかでの、歌の感情の状況設定を決める。
それにふさわしいメロディを、彼は「ララララ〜」とうたって、作曲する。
それを音楽の専門家が楽譜に書き取って定着し、
脚本作家のレペーラが歌詞を付ければ完成。
あまり文学的な表現や、むだな美辞麗句、
言いにくいことばづかいは、ガルデールが却下したので、
レペーラは相当に苦労したらしい (ガルデールは作詞はできなかった)。
わかりやすくても、内容の薄い平凡な表現も却下された。
メロディは、多くの場合、一気にできてしまったようだが、
いくら天才でも常に即興で全曲(タンゴ歌曲は2部構成)はつくれない。
ガルデールも彼なりの「生みの苦労」はしている。
ガルデールのニューヨークでのホテルの部屋にはピアノが置いてあった。
そのピアノの鍵盤には小さな紙が貼ってあって、そこに番号が書かれていた。
彼は声域が広かったけれど、2オクターヴ、1〜25番くらいあればじゅうぶんだ。
だれもいないときメロディを思いつくと、忘れないために
彼はその音をピアノでたどって、番号を書きとめていった。
あとで専門家が来て、それを楽譜に直したのである。
いまガルデール作品の楽譜を見ると、
彼がうたったとおり忠実に採譜されていることがわかる。
音楽的な改良 (?) は許されなかったようだ。
またメロディの流れのじゃまになるような、和声のための和声も付けられていない。
ガルデールの作曲に協力した専門家はふたりいて、
いずれもアメリカで活動していたアルゼンチン人音楽家だ。
ひとりは、テリーグ・トゥッチ Terig Tucci、
映画とレコードの伴奏オーケストラの編曲指揮者をつとめた。
もうひとりは、アルベールト・カステジャーノス Alberto Castellanos、
オーケストラにも参加したピアニストで、リハーサルなどでも専属伴奏者だった。
このふたりが、ガルデールに「なりかわって」作曲し、
さきのボネッシの例のように自分の名前を出さなかったこともある。
トゥッチは、有名な«Mi Buenos Aires querido»(わが懐かしのブエノスアイレス)の
イントロ的な部分などをつくり、
カステジャーノスは、モダンに洗練された«Soledad»(孤独)を全曲つくって
ガルデールにプレゼントした。
カルロス・ガルデールはもと民謡歌手だったから
ギターの基本的なコードは押さえることができた。
でもギターを習うのはきらいで、
しかもギターどころか弦も買えないような
びんぼうアーティスト時代だったので
この楽器はうまくこなせない。
なまじ楽器に手伝わせなかったから、
自由にうたう、素晴らしいメロディができたのだと思う。
いまのシンガー・ソングライターたちは
――ガルデールとは、歌つくりの目的が違うけれど――
ギターのコードに凝ったり、それにしばられたりして、
けっきょくどれも同じようなメロディ展開になってしまう。
ガルデールの曲や、ガルデールになりかわった他人の曲は、
どれも似たような感じになっているが、
偉大な歌手の個性的な歌のスタイルに合わせているわけだ。
その歌のスタイルそのものが魅力なのだから、似た感じでないと困る。
自由な声だけの(楽器なんかオマケ)創造物なのが、
ガルデールの作品のすばらしいところだ。