峰 万里恵さんがひさしぶりにフラメンコがうたいたくなって、
fandango(ファンダンゴ)をとりあげることにした。以前
マノーロ・カラコール Manolo Caracol (Sevilla 1910 - 73 Madrid 自動車事故)
のファンダンゴをうたったことがある。こんども
彼の録音から、べつのメロディ・歌詞を採ろうと思ったが、けっきょく
マヌエール・トーレ Manuel Torre (Jerez de la Frontera 1878 - 1930 Sevilla) の
録音した2種のファンダンゴのひとつにした。
フラメンコの歌はみんなおなじじゃないの? と言われそうだが、
それがちがうんですよ!
フラメンコは、だれにもできる民謡ではなく
(そういう要素もありますが)、
プロでもアマチュアでもいい、アルテ(芸、芸術、わざ、アート)をもった人、
つまりアーティストの創造物なのだ。
それはそれとして、ファンダンゴとはどういうものか、簡単に前置きをしておこう。
ファンダンゴという名前を聞いて、日本でもかなり多くの人が
「なんかスペインの陽気な踊りでしょ?」といったていどの知識を
もっていると思う。この認識はかなり正しい。
昔はスペイン、ポルトガルやラテンアメリカで、ファンダンゴといえば
――特定の舞曲であるほかに――
酔った男女が踊る不道徳なパーティ、酒場の騒ぎを指していた。
しかし、ファンダンゴは古くからスペイン民族(?)の代名詞といえる重要な舞曲だ。
バロック音楽の巨匠 ドメーニコ・スカルラッティDomenico Scarlatti
(Napoli 1685 - 1757 Madrid) も、ファンダンゴの形式・リズムで作曲した。
奇しくもバッハ、ヘンデルと同い年の彼は、イタリアのナポリ生まれだが、
後半生はずっとスペインに住んで宮廷音楽家をやっていた。
わたしはピアノは弾けないけれど、スカルラッティの楽譜を少しだけ持っている。
ときどきながめて、生き生きしたスペインのリズムを感じて喜んでおります。
スカルラッティは民俗舞踊を採譜したわけではなく、
その精神を汲んで創作したのだから、
昔のファンダンゴのリズムの実態は正確にはわからない。
たぶん本質的には変わっていないだろう、
いまのファンダンゴのリズムは3拍子。ただし
3拍子×2で1単位となる。フラメンコの踊りの先生は、
「ファンダンゴは6拍子で考えなさい」と教える。
……古い歴史をもち、広く伝播したファンダンゴについて書いていたら、
本1冊では足りないかもしれない。わたしもこれ以上は知らないので、
わたしが40数年前、初めてレコードで聴いた歌詞をふたつご紹介して、
前置きを終わりにする。
これらはアーティストがうたうからフラメンコの中に含まれるが、
だれでもうたう民謡でもある。メロディはおもに長調
――これは正しくはドーリア旋法と呼ぶべきらしい――だが、
最後はフリギア旋法
(スペイン調、アンダルシーア音階などとも呼ばれる)に流れこむ。
下に書いてある1行で6拍ふたつ分の長さ。
セラーナは山脈地帯の女、さらに意味が広まって野の女、村の女の意味。
民謡などでは、古くからこのことばは
「ヒターナ(ジプシー女)」の同義語として呼びかけに使われてきた。
いつも野の薫りをもっているのがファンダンゴの特徴だ。
海辺の景色が見える歌詞も多い。
スペインの民俗舞踊には、かならず歌が入る。
歌といっしょに踊るというのはアラビア音楽の影響なのだと
むかし読んだ学者の本にあった。
正しい説なのかどうか知らないが、「そんなものなんだな」と
わたしは信じている。とにかくスペイン、ポルトガルと、そこから流れた
ラテンアメリカの音楽では、フォークダンスにはかならず歌が入る。
その歌の部分が、ダンスを離れてひとり立ちして、いわゆる民謡となることも
スペイン、ポルトガルとラテンアメリカ各地でふつうのことだ。
ファンダンゴは、フラメンコの故郷アンダルシーア地方各地でも愛されてきた。
とくにウエルバ県(スペイン南西端アンダルシーア地方の、そのまた南西端)は、
ほかの地域の人にも愛され、真似される
すてきなメロディ・ラインのファンダンゴを生んだ。
Fandango de Huelva(ウエルバのファンダンゴ)は、
その中にいくつかのスタイルを含み、
ふつうの(?)ファンダンゴから独立した1形式として尊重される。
ウエルバ県の東隣はアンダルシーアの首都があるセビージャ県。西隣はポルトガル国。
北はエストレマドゥーラ地方につながる山地
――シエラ(山脈)・モレーナの延長にあるウエルバ山脈。
南はカディス湾で、あのコロンブスもここを通って大西洋に乗り出した。
ウエルバ県には山地(古代から銅の鉱山がある)もあれば浜辺もある。
さっきの歌詞の「セラーナ」は、ジプシー女の意味ではなく、
ほんとに山脈の女に呼びかけていたのかもしれない。
いま日本でブームの感がある(信じられない!)
イベリコ豚の「ハモン・セラーノ(山脈のハム)」は、ウエルバ山脈から生まれた。
ハブーゴという名前の土地(標高658m、現在の行政区分で人口2600人)が
発祥地で、あのコロンブスも航海食にハブーゴのハムを
船に積んでいった。歴史は古いです。
Fandango de Huelva(ファンダンゴ・デ・ウエルバ)の発祥地はアロズノという
(現在、市の人口4500人)。数千年前から銅鉱山によって
有名だった。農業はオリーヴ、オレンジ、小麦など。
こういう豊かな土地には、よそからも人が流れ込んでくるから、
音楽の新スタイル創造にはもってこいだ。
……アロズノだけを持ち上げるとほかの町村の人から怒られる。
とにかくウエルバの山と海のあいだのあちこちで生まれ育ったファンダンゴは
よその地方の人たちも魅了し、
どこでも愛されるようになった。
そしてフラメンコのアーティストたちが、もう完全に民謡の気分を捨てて、
ソロで「聴かせる」曲としてうたうようになった。
19世紀末から20世紀はじめにかけて、ファンダンゴは
――もう「ウエルバの」なんて限定した呼び名はやめて――
カンテ(フラメンコの歌)のレパートリーに加えられた。
そのころのフラメンコ・アーティストの99%くらいはヒターノだったので、
フラメンコのファンダンゴは「ファンダンゴ・ヒターノ」と呼ばれたりした。
ヒターノとはスペインのロマ、いわゆるジプシーのことである。
この曲種の呼び名は、いまは使われない。
(ヒターノは付けず)単にファンダンゴとだけいう。
こんど万里恵さんがうたうのは、マヌエール・トーレ(もちろんヒターノ)が
ウエルバのファンダンゴをフラメンコとしてうたったものだ。
この同じ歌詞を、後年、やはりヒターノでスーパー・スターだった
マノーロ・カラコールもうたっている。今日のヒターノのスターで、別格的な存在の
ホセ・メルセー José Mercé (Jerez de la Frontera 1955) も
この歌詞を得意にしている。
その比較論なんかしていたら長くなる。とにかくトーレの歌を聴こう。
日本語がぎこちなくて申し訳ない。
最初に「彼女をつかまえた」なんて聞き捨てならないことを言って
聴くほうをびっくりさせておいてから話をはじめるのは、
ファンダンゴの特徴的な作詞技法である。
それから、1行めと3行めは本来はまったく同じ歌詞を繰り返すのだが、
トーレに限らずフラメンコの歌い手は、こんなとき
絶対に同じことは言わず、
ほんの少しだけでも、ことばづかいを変える。
同じことを繰り返さないのがフラメンコ美学であり、
重要な技法になっている。
また、この記事では、実際の発音ではなく、標準スペイン語で表記しているけれど、
この歌詞で2語――nío(標準スペイン語はnido=巣)、mare(madre=母)――は
発音どおり書いた。フラメンコの世界では、このなまった形のほうが「正しい」。
標準語で発音したり書いたりしたら、非常に違和感がある。
註が多すぎてごめんなさい。さて次の歌詞――
まず野原の出てくる歌詞だったので、次は浜辺の景色を見せる。
――こういう演出というか、語りかた、聴かせかたのテクニック!
さすが大アーティストはちがう!
ここで、この記事とはなんの関係もないのだけれど、
マヌエール・トーレの大ファンだった詩人フェデリーコ・ガルシーア・ロルカ
Federico García Lorca (Fuente Vaqueros, Granada 1896 -
1936 Sierra de la Alfaguara, Granada 内戦中銃殺される) の有名な物語詩の冒頭を思いだした。
「みどり」色はどんなイメージなのか? おまえは誰なのか?
作者にもわからないそうだ。超現実主義の極致だ。
この詩をフランス語に訳したものがあったので、本屋で立ち読みしたら、
まず山中の馬がでてきて
次に海上の船――なんか変だなと思って考えた。
フランス語の脚韻をふませるつごうで、順序を入れ替えているのだと気がついた。
でも、この詩の美しさは、イメージの登場のしかたの意外性というか
非現実的なところにある。
まず、なんだかわからないが野山の景色が見えて、
とつぜん海に飛ぶのでびっくりする。
おどろく間もなく、山になって、しかも馬がいる!
(この船と馬は、このあとの物語にはまったく出てこない)
神秘的で、底知れぬこわさをもった原作の展開を入れ替えてしまったら、
どんなに上手にフランス語で韻をふんでいても、
この訳者はロルカへの尊敬がなく、正しく感じてもいないということだ。
よけいなことを書きました。
本論にもどって、マヌエール・トーレさんは、本来は民謡だったメロディを、
じつにうまい話術で語ってゆく。
それを支えるのは、クラシック声楽とはちがうけれど、非常に高度な歌の技術。
いまフラメンコにかぎらず、音楽のさまざまのジャンルで
若い歌手たちがいろいろ斬新なスタイルを開発しているが、
トーレさんのような昔の天才たちのほうが、
くらべようもなく「進歩的」だ。
トーレさんは、おそろしい神秘を自分のなかにもっていた。それも「自然に」ね。