峰 万里恵さんは「大好きな」曲がずいぶん多い。うたっているのはぜんぶ
大好きな曲だ。そのなかでも、とくに大好き(笑)なのが、ペルーの女性
チャブーカ・グランダ Chabuca Granda
(Abancay, Apurímac 1920 - 83 Miami, USA) がつくった
ワルツの数々だ。こんどのライヴでは
«Fina estampa»(フィーナ・エスタンパ=優雅な姿)をうたう。
この曲は、わたしが初めて「ペルーのワルツのリズムはおもしろいんだなぁ」
と感心した曲だ。それも、アルゼンチンの、グリー・クラブ風の男声4重唱
オプス・クアトロ Opus 4 の録音。
本場ペルーのレコードは、ほとんど日本では聴けなかった時代だった。
そのときライナーノーツ(当時は「ジャケット解説」と呼びました)を書いた
わたしは、題を『粋な殿御』とした(笑)。自分でも
「いい題じゃないなぁ」と恥ずかしかったが、ほかに考えつかず、
昔の男なんだとわかるから、まぁいいか……。
それから20数年が流れ、ブラジルの カエターノ・ヴェローゾ
Caetano Veloso がこの曲をうたって、
アルバム・タイトルにもなった。
すっきりと『粋な男』という題だが、わたしは少し気に食わない(笑)。
でも、殿御のほうがいいなんて、さらさら思っていない。
「とのご」なんて、いまのフツーの人は読めないよ、と言われた。
そーかもしれない。よーするに、日本語にしちゃうと、
日本人の男のイメージがかぶさってきて、
原作の男性像がゆがんじゃうんだな。
グチをこぼしている場合ではない。まずペルーのワルツというものをご紹介しよう。
――ワルツは、19世紀ラテンアメリカでもたいへん人気のあったダンス音楽で
ウィーンでできた新曲がすぐに各地に伝わって流行し、
そのスタイルを真似して地元音楽家もたくさんの曲をつくった。
やがては、その土地の民謡の歌ごころをもったメロディの、
民俗的な匂いのするワルツも各地に自然に生まれてきた。
とくにペルーの首都リマの、いちばん貧しい人の住む地区で、
20世紀のはじめに、独自の強いリズム感覚をもったギターによる
ワルツ演奏のスタイルが誕生した。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスにタンゴのダンスが登場したのより20年ほどあと、
ブラジルのリオで民俗音楽から脱したサンバが生まれたのと、ほぼ同じ時期?……
リマのワルツを生んだのは、アフリカ、スペイン、
先住民(インディオ)の混血した人だった。
ペルーの黒人音楽は、アフリカのリズムに、インディオの悲しいメロディが
ミックスしているのが、どこにもない魅力を生んでいる、と言われる。
ワルツもそうかな?
スペイン語ではワルツは vals(バルス)という。
ペルーでも一般にはそうだが、独自のワルツのことは
valse(バルセ)と呼んで、差をつけていたそうだ。
よその国では、ペルーの独自性を尊重して
vals peruano(バルス・ペルアーノ)と、
独立したジャンルとしてあつかっている。
外国でも、バルス・ペルアーノという形式名で、
8分の6拍子のミックスしたリズム感覚の、ペルー風の曲がつくられる。
一例として、万里恵さんのレパートリーにもある «Que nadie sepa mi sufrir»
(だれも知らないわたしの悩み)はアルゼンチン製で、ラテンアメリカ全体で超ヒット。
フランスの偉大なエディット・ピアフさんが、ラテンアメリカに
公演に来たツアー中に聴き、
気に入って、フランス語歌詞を付けさせ、
«La foule»(群衆)としてこれもヒット。
――「バルセ」は、ペルー人の関知していないほうにまで進んでしまった。
話を元に戻して、1920年代になると、ペルーのワルツの歌詞は単純素朴なものでなくなり、
和音の展開は豊かになった。これには、
アメリカのポピュラー音楽(ジャズや、フォックストロットなどのダンス音楽)の
しゃれたハーモニー、そしてアルゼンチンのタンゴ歌曲
――1917年ごろに、女性に見捨てられた男の歌として確立――
の影響というか、刺激が、大いにあったそうだ。この新しい時代を代表する作者は
フェリーペ・ピングロ・アルバ Felipe Pinglo Alva (Lima 1899 - 1936)。
彼のいちばん有名な曲(1930年)«Luis Enrique el Plebeyo»
(平民ルイス・エンリーケ)は、
貴族の女性に恋した貧しい平民の訴え。
実話からインスピレーションを受けたそうだ。モデルについては、
作者本人というのも含めて、諸説ある。いろんな男たちの話が
重なっているんじゃないかな?
このていどの内容でも、封建的なペルーでは反社会的だとして放送禁止になった。
……とにかく、ペルーのワルツは1920年代に大衆の歌曲として確立し、
深く愛されつづけ、今日も人気の高いジャンルである。
さて、これからが本題。
『フィーナ・エスタンパ』には、以前
「素適な格好」という日本題もあったような気がする。
これも間違ってはいないけれど……。
「フィーナ」は英語のファインというのと同じ語源で、
この題名の場合は「洗練された」という日本語がいちばん近いかと思う。
「エスタンパ」はスタンプと同じ語源だが、ちょっと古風な日本語で
「様子(ようす)のいい方ですねぇ」という、その「様子」に当たる。
あるいは、姿かたち、風采、外見、見てくれ……
どれも正しい訳といえるが、タイトルにするには抵抗がある。
というわけで、適切な日本語題をつけることはもうあきらめて、
とにかく「フィーナ・エスタンパ」。
この曲から浮かんでくるのは、スペイン植民地時代の
おもかげが濃く残った古きリマの街。
そこを歩んでいく、昔風の優雅な男ぶりの素適な紳士。
……実はこの人はチャブーカ・グランダさんのお父さんなのだ!
チャブーカさんが43歳のときにお父さんが亡くなり(1963年)この曲が捧げられた。
ただし、峰 万里恵さんは、そのことは知らず、
カエターノ・ヴェローゾのCDでこの曲に魅了されてうたいたくなり、
研究のためチャブーカさん本人のCDも買って
ますます感動したのである。
評論家とよばれるわたしも、お父さんのことは知らなかった。
歌詞は、そのことにはひとつも触れていない。
かなり年齢が上の、素適な男性にうたいかけているのだとは感じられる。
そして、その人は彼女だけの、
いわゆる「恋人」ではないということも感じ取れるが……。
鳴き声から「ククリー」と名づけられた、この種類の鳩は
鳩の平均より小ぶりの野生種で、美声で節まわしも上手な
天成の歌い手。決して人に慣れないのだが、つかまえて鳥かごに入れ、
窓の外に置いてあった。
道行く人に、素適な鳴き声をたのしんでもらうためである。
なんとすてきな風習! いまのリマでは無理だろう。
2番の歌詞で、この小道を
刺繍入りのタフタのドレスや、
かかとの高い絹の靴や、糊の利いたペチコートも
通ったことがわかる。チャブーカさんが子どものころ
1920年代の風景だろうか。
(わたしは19世紀かなぁと感じたので「殿御」なんて訳をつけてしまったのだった)
「フィーナ・エスタンパ」研究のために、チャブーカさんのCDを、
感激しながらなんども、ただただ聴いているうちに
万里恵さんが「これだ!」と飛びついた(失礼)曲がある。
«José Antonio»(ホセ・アントーニオ)だ。
ラテンアメリカでは――世界的にもそうかもしれない――
男性が女性に歌いかける曲は無数にあるのに、
女性から男性への、まともな曲は非常に少ない。
それに加えて、歌詞は説明的でなく、神秘を宿した詩になっている。
万里恵さんの直感では、具体的にわからない部分があるほど
いい歌詞なのだそうだ。
なんどうたっても飽きない曲は、神秘をもっている、とのこと。
また、歌でも演奏でも、悲しみのないものは、いい音楽ではない。――わたしも同感だ。
さて、ホセ・アントーニオという名前はわかった。
この人は、歌がはじまると、馬に乗って小道をやってくる。
この曲については、万里恵さんのCDのライナーノーツに書いたので、
重複することは避ける。ただし、最近、
チャブーカさんのコンサートの映像での彼女のお話や、
独自の調査(笑)で、新しく知ったことがあるので、
「うたを もっと 感じるために」必要かどうか
わからないけれど書いておこう。
ホセ・アントーニオ・デ・ラバージェ・イ・ガルシーア
José Antonio de Lavalle y Garcíaさんは、19世紀の末ごろ、
300年あまりの伝統をもちながら消滅してしまっていた
馬の「パソ・ペルアーノ」を研究・復活させた人だそうだ。
自分のもっていた純血のベルベル馬と
ある女性のもっていたやはり純血のベルベル馬を交配し
生まれた子馬に歩きかたを教えてゆくという、たいへんな作業。
パソ・ペルアーノとは「ペルーのステップ」ということだが、
英語の馬術書などでも、スペイン語のまま使われている。
両手(すなわち前脚)は水をかくように動かし、
両足(後脚)はまっすぐ前に出る。
どんな荒地でも揺れることなく、バランスを保ち、
長時間歩いても、馬も乗り手も疲れない。
これができるのは、ペルーのベルベル馬しかいない。
この馬は、簡単にいえばモロッコ馬4分の3、アンダルシーア馬4分の1の血を持ち、
後ろ足がとても長い。肺と心臓が異常に大きいそうだ。
興味のある方は、インターネットで
paso peruano のキーワードで検索してみてください。
ペルーはもちろん、南北アメリカ各地、ヨーロッパに、
この馬とこの歩きかたの保護・育成団体がある。
なお、ホセ・アントーニオさんは、チャブーカさんが知ったとき、
もうご老人で、すぐ亡くなってしまわれた。
この曲の最後の部分の歌詞を、怒りをこめてうたう女性歌手がいて、
チャブーカさんは叱ったそうだ。
「これは愛の歌なんですよ!」
この最後の部分は「フーガ」だ。
フーガはペルーの民俗音楽独自の曲づくり法で、
終曲として、本編とはちがった音楽を付けること。
おなじみの『コンドルは飛んでゆく』で、
ゆったりとしたメロディ部分が終わると
速い舞曲調がでてきますね? あれが「フーガ」です。
フーガはアンデス音楽にはよく使われる手法だが、
ワルツではめずらしい(わたしは、ほかの例を知らない)。
このフーガ部分は、リズムは8分の6拍子、
メロディはアンデス音楽の風味をもっている。
チャブーカさんは完璧なリマっ子といえるだろうが、
生まれてから3歳までは、ペルー南部
標高4800mのアンデス地帯にいた。先住民の音楽も体にしみこんでいた。
峰 万里恵さんのCDの『ホセ・アントーニオ』では、
三村秀次郎さんが、アンデスの哀歌ふうのギター前奏をつけている。
聴きものですよ!
チャブーカさんが、銃撃戦で死んだ21歳の詩人・ゲリラ戦士に捧げた
数曲の中にもワルツがあるが……この記事では取り上げないことにする。
黒人音楽のリズム、トンデーロで、実在の混血の男性を讃えたものがある。
これについては、またの機会に……。
男性にうたいかける重要な曲に、やはり黒人音楽のランドーのスタイルで
«Cardo o ceniza»(アザミか、灰か)がある。
ただしこれは愛と人生の決算にピストル自殺した
チリのビオレータ・パラ Violeta Parra
(San Carlos, Chillán 1917 - 67 Santiago) になりかわってつくった曲で
(具体的なことはなにも出てこないけれど)、
内容が重すぎて、いまわたしは書きたくない。
万里恵さんも、まだうたっていないし……。
歌詞の最初だけご紹介しておく。
© 2007 Masami Takaba