峰 万里恵さんは、バンドネオン奏者で楽団リーダーだったアニーバル・トローイロ
Aníbal Troilo (Buenos Aires 1914 - 75) のつくったメロディが大好きで、
いろいろうたってきたけれど、
こんど久しぶりに«Barrio de tango»(タンゴの街)をライヴのプログラムに入れた。
トローイロは長いあいだ、アルゼンチンのタンゴ・ファンの大多数から
生きている神様のように思われていた。
彼の楽団の専属歌手はみんな素晴らしく、
独立してソロ歌手となってスター級の活躍をしたので、
トローイロは歌手を育てる名匠だとも言われた。
じつは、もともと、いい歌手を専属に選んでいたのだ。
とにかく歌の語りかけを大事にし、
歌手を生かした楽団リーダーだったことには疑いはない。
でも、ここではトローイロの話はひとまずおいて、作詞者のことを書こう。
『タンゴの街』を書いた詩人オメーロ・マンシ
Homero Manzi (Añatuya, Santiago del Estero 1907 - 51 Buenos Aires) は、1930年代の初めに、
《ミロンガ》という名前の、昔のタンゴの素朴なリズムが復活させられたとき
作詞家としてデビューした。作曲家・ピアニストのセバスティアーン・ピアーナ
Sebastián Piana (Buenos Aires 1903 - 94) とともに、
新ミロンガの「発明者」となったわけだ。
1940年代になると、トローイロほかの作曲家と共同制作で、
今日もタンゴ歌曲の粒よりの名作としてうたいつづけられている
珠玉を数々生み出した。
『タンゴの街』は1942年の曲で、作曲家トロイロとの
緊密な連携作業でつくられた画期的なタンゴだ。
めずらしいことに(わたしの知るかぎり唯一の例)初版楽譜
――ピアノ・ピースとして出版――の裏表紙に
作詞者みずから曲目解説を書いている。力が入ってますよ!
洪水を起こす川はリアチュエーロという名前で、たいして大きくもない。
土地がずいぶん低いのだろう。
ブエノスアイレスの南のはずれのほうは、より貧しい庶民が住んでいる地域だ。
マンシがこの歌詞を書いたころは、もう池なんかなかったろう。
だからノスタルジーで再構築したのだ。でも、もっと南のほう、
リアチュエーロ川を渡った対岸の、市外のかなり大きな地帯では、
市内で働いて帰宅のバスを降りたら、
いつのまにか百メートル四方を超える水たまりが出現していて、
帰る道がなくなったなんてことが、ごく近年まで(もしかしたら、いまでも)あった。
それはさておき、こんな風景は、わたしたち外国人の記憶のなかにも
似たものがある。もちろん、その風景のもっている感情は、
あるいはマンシのことばを借りて、その風景のもっている「詩」は、
外国ではないブエノスアイレスの人間、その文化から出てきたものだ。
でも外国人にも、共感をさそい、その世界に引きこむ魔力をもっている。
ここでバンドネオン・ソロと楽団の応答による短い間奏がある。
作曲者トロイロも気合を入れて、ふつうのタンゴにはない手法を入れた。
でもむだな飾りはなんにもない、すごく短い間奏。
そこに感情を凝縮させている。
そして2番――タンゴの定型で、この歌詞はリフレーンとして
2度同じものがうたわれる。
その最後の決めの歌詞、
ここで「街」と訳している barrio(バーリオ)ということばは、
日本語では、硬くなるが「地区」のニュアンスのほうが近い。
行政上どれほどの意味があるのかわたしは知らないが、
たとえばマンシが語っているヌエバ・ポンページャ(略してポンページャ)地区は
面積6平方キロ、今の人口は6万3千人だそうだ。
1960年代から、ボリビアから出稼ぎに来た人たちが非常に多く住み着いている。
ここからアルシーナ橋を渡って、リアチュエロ川の対岸の地帯もそうだ。
でも、わたしたちにとっては、マンシがうたった、失われたタンゴの街である。
わたしたちはブエノスアイレスの住人ではなく、そこに生まれたのでもない。
でも、たとえば『タンゴの街』に共感し、それを自分の街にすることができる。
よく「その土地で暮らさないと、そこの歌や音楽は表現できない」といわれる。
まったく根拠のない説だ。
たしかに、あまりにも地域生活に密着していて、外部の人には
(同国人でも)表現できないだろう曲も、まれにある。
でもけっきょくは、アーティストの感受性と表現力の問題だ。
峰 万里恵さんも、マンシやトロイロの気持ちになりきれる自信があるから、
こういう曲をうたっているわけだ。
聴くほうも気持ちを感じればいいので、予備知識はあまり必要ないと思うけれど、
簡単にブエノスアイレス南東部の地区をご紹介しておこう。
タンゴの発祥地を特定するのは不可能なので、
みなさんそれぞれの好みの説をお選びください。
どの説も、かなりの真実を含んでいる。それらの中でも
ブエノスアイレス南東部をタンゴの故郷と認める人がたいへん多い。
ここは都会のはずれであると同時に、大草原が重なっていた。
そのミックスから新しいアイデンティティが生まれ、
その表現がタンゴ……まぁ、話を簡単にすればそういうこと。
上の地図でリアチュエロ川は東(右方)へ流れ海に注ぐ。
その川口にあるラ・ボカ地区と、隣接するバラーカス地区は、
19世紀後半にブエノスアイレス港に押し寄せた
大量のイタリア移民の受け皿になった。
近年までタンゴ音楽家の過半数は、イタリア系の姓をもっていた。
彼らの両親や祖父母の多くがこれらの地区にまず住んだのだった。
1910年前後、ラ・ボカ地区の酒場はタンゴが(ダンスを離れて)
「聴かれた」最初の場所になった。
みんなバンドネオンの音色にしびれていた……。
パルケ・パトリーシオス地区は、昔はコラーレス・ビエホス
(古い牛囲い場=複数)と呼ばれていた。
大草原から歩いてきた大量の牛たちのキャンプ地だったわけだ。
大きな食肉加工場があった。
そこで働く男たちや、牛を連れてきた牧童たちの娯楽が、
タンゴのダンスの原型だったという説を、わたしは信じている。
ギターによる2拍子のリズムで、男ひとりで即興で踊ったそうだ。
食肉加工場がもっと西のはずれの地区に移転したあと、
このへんは悪臭を放つゴミ焼却場で有名(?)になった。
廃棄物や焼却後の灰の中からリサイクルして食べてゆく人も住み着いた。
1920年代なかばのタンゴ«Del barrio de las latas»(ブリキの街から)や
«El ciruja»(エル・シルーハ=ゴミ拾い)は、この街の住人をうたっている。
この街は、マンシがうたうポンページャ地区と同様に沼も多く、
「蛙たちの街」とも呼ばれた。
夜になると蛙の鳴き声が太鼓の連打のように聞こえたのは
詩的表現でもなんでもなく、現実そのものだったろう。
……こんなところが、タンゴの街たち。
1947年になって、詩人マンシとバンドネオン奏者トローイロのコンビは
ワルツ«Romance de barrio»(下町のロマンス)を発表した。
ここには街の風景は出てこない。
学生時代の恋への郷愁がうたわれる。
南半球の5月は日本では11月、「秋も深まり」というところである。
翌1948年の初め、マンシ=トローイロは
『タンゴの街』の延長線上にある傑作タンゴ、«Sur»(スール=南)を発表した。
この部分の歌詞は一部ことばの違うヴァージョンがあるが、
ここでは万里恵さんのうたっているのを採用した。
サンフアン通りとボエード通りの交差する角は、ボエード地区にある。
「鍛冶屋の街角」はパルケ・パトリーシオス地区にあったそうだ。
以上でこのタンゴのひとつの部分になる。
一般にタンゴ歌曲は、これとほぼ同じ長さの
もうひとつの部分があって、2部構成だ。
ふたつの部分は、異なった感じのメロディにする。
片方をメジャー(長調)、片方をマイナー(短調)にすることも多い。
また、片方はリズミック、もう一方は流麗なメロディにするのも一般的だ。
そして、ふつうは2部分でできた全体を繰り返す。
繰り返すとき、1番の歌詞は別のもの、2番は同じものが使われる。
2番はリフレーンというわけだ。
――マンシが書いてきた歌詞を見て、トローイロは文句を言った。
ことばづかいや韻律がぜんぶ同じなので、
そして語っていることがすべて同じなので
1番と2番のメロディに変化のつけようがないというのである。
(万里恵さんもこの曲は覚えにくいと言っている。
詩はどこをとっても美しいけれど、
ことばを変えても同じことを語っているので、
順序がわからなくなりそうだ、とのこと。
多くのタンゴは物語り風に展開するが、
『スール(南)』は1ヶ所から動かないのだ)
けっきょくトローイロは、もとの歌詞の韻律はまったく無視して、
変化のあるモチーフを挿入した。
そのメロディにあわせてマンシが歌詞を書き直し、2番が完成した。
長く伸びる音のメロディなので、ことば数が少ない。
そのほうが感銘は深い。この曲の成功には、
トロイロの感性が大いに貢献したといえる。
そして最後の決めの歌詞は――
「通りたち」とか「月たち」なんていう日本語はない。
でもマンシに限らず、スペイン語やポルトガル語の大多数の詩では
さまざまの無機物が生きものだと感じられている。
生きものだから死ぬのである。
余談ながら、ずいぶん前のことだが、この『スール(南)』の歌詞の一部
「愛情にふるえていたきみの20歳」を
「そんな日本語はない」と怒られた。
日本語にないのはあたりまえだ、そんなスペイン語だってない。
詩人マンシがつくった表現なのだ。
彼にとって、20歳という抽象的なものも、ひとつの存在、生きものなのだ。
きみがふるえているのではない。20歳がふるえている。
このところを、たとえどんなに上手な日本語でも、
ふつうのことばに置き換えてしまったら、マンシに失礼に当たる。
「うたを もっと 感じる」ために、通りや月や20歳を
わたしたちと同じ生きものだと感じてください。