「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美


ファドとモウラリーア



峰 万里恵さんが、こんどファドのライヴで(彼女にとって)初めて
«É noite na Mouraria»モウラリーアは夜)をうたうので、
「ファドの発祥地」として知られるモウラリーアをご紹介したい。
モウラリーア(スペイン語ではモレリーア)は
「モーロ人の住む地域」という意味で、
現在、地名として残っているところは数少ないが、
かつてはイベリア半島(スペインとポルトガル)のいろんな町にあった。
モーロ人(英語ムーア人)とは、モーリタニアの人というのが語源。
モーリタニアは現在、北西アフリカの独立国だが、
昔は国境など、やや漠然として広く、今日のモロッコなども含んでいた。
地中海沿岸でもある北アフリカのイメージ的な呼び名
(こんな考えかたは、学問的には正しくないだろうが)。
モーロ人とは、この地方からやってきて、数百年にわたりイベリア半島を支配していた
イスラーム教徒たちのことだ。
アラブ人、ベルベル人、その他のアフリカ人の混血だ。
イスラーム教徒は、15世紀の末にイベリア半島から公式に追放されたが、
キリスト教に改宗したモーロ人は、差別されながらも
居住権はもらえた(最初は市の外に住まされたが)。
そういう人たちの住む地区が、モウラリーア
――数世紀たつうちに、そんな地区の住人はモーロ人だけではなくなった。
スラム街とか、ゲットーという呼びかたには当たらないかもしれないけれど、
社会的地位の低い、いちばん貧しい人々の街になった。
現在は? モウラリーアはリスボンでいちばん貧しく、
取り残された地区といわれる。
家々はほとんど廃墟となり、改修や新築が、
ほんの少しずつ進んでいるような、いないような……。
ファドがうたうのは、ここにまだ生命が感じられた時代の、
郷愁のモウラリーアの姿である。
モウラリーアの幻にうたいかけているのである。

Mouraria は、かつて日本では「モーラリア」という表記がされていた。
その後わたしは「モーラリーア」と書くことにした。
「リー」と引っ張ると、日本語的に読んでも、ポルトガル語の
アクセントがある感じが出ると思ったからだ。
いまは「モウラリーア」と書くことにした。
わたしには、これがいちばん気持ちがいいカタカナ表記。
なお、「モーロ人」というのも、ポルトガル語なら「モウロ人」と書くべきだ。
統一すべきですかね?……ここで悩んでいると先に進めませんね。


§ モウラリーアは夜

この曲の作曲者は アントーニオ・メシュトル António Mestre
――アコーディオン奏者で、パリのミュゼット・スタイルで、ファドや
フォルクローレを弾いて、なかなか人気者だったらしい。
ポルトガル南部のラゴシュに生まれたが、幼いとき一家でフランスに移住。
パリでアコーディオンと音楽を学んだ。
その後ポルトガルに帰り、リスボンで、
そして世界各地を巡って演奏活動した。
1960年代末からブラジルのリオに定住、
コパカバーナ海岸にポルトガル料理店を開いて、
ポルトガル料理・音楽・文化の普及にがんばってきたとのこと。
現在はご隠居さんかな?
アマーリア・ロドリーゲス Amália Rodrigues さんもうたってヒットした(1967年?)
«Namorico de Rita»(リタのちっちゃな恋)などの作曲者でもある。
なお、アマーリアさんの『モウラリーアは夜』の録音は、
1970年の日本でのライヴ録音しかない。
その日本発売アルバムでは、タイトルが
«Nostalgia»(ノスタルジーア)となっている。
作者もまったく別の人たち(有名人である)がクレジットされている。
この題名の、その作者たちによる曲を越路吹雪がうたっていると
日本著作権協会のデータベースにあるが、どんな曲なんだろう?
まぁ、いま本題には関係ないし、
わたしには興味はないので、追求しないことにする。

amalia_in_japan

アマーリア・ロドリーゲス
(1970年9月2日、東京・産経ホール)

 じつはわたしはこの曲が大好きで、峰万里恵さんにも聴いてもらいたい、聴いて気に入ったら、うたってもらいたいと思って、長年(というほどでもないが)にわたってアマーリアさんの録音を探していた。
 日本でのライヴ盤に入っていることを完全に忘れていたので、じぶんが持っているレコードを外で探すという、たいへん無駄な努力をしたことになる。
 それで、結局アマーリアさんのレコードが見つからないので、ナテールシア・ド・コンセイサ Natércia de Conceição という人の録音を聴いてもらった。万里恵さんは「いい曲ね」と気に入ってくれて、うたうことにした。そのあとで、アマーリアさんの日本ライヴに入っていたのに、ようやく気がついた間抜けなわたしです。記憶にたくさんの穴が開いてるんですね。
 なお、アマーリアさんの日本録音は、現在ブラジル盤のCDで聴ける。作曲者アントーニオ・メシュトルのベスト・アルバムに「特別ゲスト」として収録されている。メシュトルは弾いていない、日本での録音だ。『MPB/中南米音楽』のMPBストアで輸入販売しているので、次のサイトのトップ・ページから Antonio Mestre の名前で検索してみてください。ここをクリック


モウラリーアは夜』の作詞者は、
ジョゼ・マリーア・ロドリーゲシュ José Maria Rodrigues
という人で、ほかの曲でも聞いたような表現、
お定まりの単語を羅列した感じもあるが、
とてもよく、きれいにまとまり、上手な歌詞だ。
ギターラ(ポルトガル・ギター)のひびきと、汽笛の一声が効果的で、
だれもが感じるモウラリーアのイメージを浮かび上がらせる。
あたりまえのことばばかりだが、みんな生きていて、
ひびきがとてもいい。

Uma guitarra baixinho
Numa viela sombria
Entoa um fado velinho,
É noite na Mouraria.

Apita um barco no Tejo,
Na rua passa um rufia,
Em cada boca ha um beijo,
É noite na Mouraria.
ギターラひとつ 小さな声で
うす暗い小路に
古い、古いファドをかなでる
モウラリーアは夜。

タイジュ河には船ひとつ 汽笛を鳴らす
道を通り過ぎてゆくならず者ひとり
どの口にもキスがひとつある
モウラリーアは夜。

ここまでが、マイナー(短調)の第1部。
繰り返すときは別の歌詞が付く。
アマーリアさんの録音では、繰り返しの歌詞はうたっていない。
忘れていたという可能性もなくはないが、
ことばは違ってもおなじ内容をうたって、
したがって出来も劣るので、うたわないことにしたのだろう。
わたしが最初にこの曲を好きになったのは、
歌詞が短くて、簡潔にすべてを語っているからだった。
アマーリアさんも、これですべてを言い切ったと感じたのだろう。
繰り返しのところはうたわず、フォントシュ・
ローシャ Fontes Rocha (Lisboa 1926) のギターラにうたわせている。
わたしには、そんなに長くソロで聴かせる腕はないので、
万里恵さんには繰り返しもうたってもらうことにした。

第2部は、メジャー(長調)のメロディだ。
これは繰り返すときもおなじ歌詞を使うのが
――ファドだけではなく多くの歌謡ジャンルで――
常道になっている。

Tudo é fado,
Tudo é vida,
Tudo é amor sem guarida,
Dor, sentimento, alegria.

Tudo é fado,
Tudo é sorte,
Retalhos de vida e morte,
É noite na Mouraria.
すべてがファド
すべてが人生
すべては 安らぎの場所をなくした愛
痛み――細やかに感じる心――そして喜び。

すべてがファド
すべては運命
命と死のモザイク
モウラリーアは夜。

このていどの歌詞だったら、だれにでも書ける?
……と思うけれど、そうはいかないんですよ。
モザイクと訳したところは、
原文では、布の「裁ちくず」ということばが使われている。
ドレスを裁ったあまり布とか……。
この歌詞も、ファドの一般的イメージのキーワードを
つなぎ合わせたパッチワークみたいだが、
そこに作者ならではのデザインがはっきり浮かび上がる。
アマーリアさんがうたわなかった繰り返し部分は、
作者のひらめきが失せて、ことばが死んでしまい、
ただ場所を埋めましたという感じ。
ただし、ファドにかぎらず、ポピュラー・ソングの歌詞では、
インパクトがあまりない部分も必要で、
聴く人の緊張をほどいて、くつろがせる役割も果たす。
アマーリアさんは、歌手が単なるムードつくりになるのがいやだったので、
うたは休んで、ギターラに弾いてもらったんでしょう。



§ アィ・モウラリーア

«Ai Mouraria»アィ・モウラリーア)は
アマーリア・ロドリーゲスさんの最初期のヒットのひとつで、
長いあいだうたいつづけた、お気に入りの曲でもある。
つくられたのは、リオ(ブラジル)で、1945年、
アマーリアさんが生まれて初めて劇団の座長という肩書きで
オペレッタを上演したときに、新作された曲である。
劇団の音楽監督で、後に(そのころも?)ポルトガル軽音楽界の大立者となる
フレデリーコ・ヴァレーリオ Frederico Valério (Lisboa 1902
- 1982) が作曲した。ヴァレーリオは、初期のアマーリアさん
――レビューなど劇場公演が活動の中心――のために、
かなり多くの曲をつくり、彼女の人気上昇に貢献した。
作詞は、台本作家としてやはり大物だった
アマデーウ・ド・ヴァレ Amadeu do Vale――
彼も数々の有名曲の歌詞を書いたが、
芝居がかって、すこしおざなりの歌詞が多いので、
アマーリアさんはあまり共感せず、長いあいだ大事にうたいつづけることはなかった。
ただし『アィ・モウラリーア』と『アマーリア Amália 』(これもヴァレーリオ作曲)の
2曲は、ずっとテーマ曲といっていいような重要レパートリーに入っていた。
アィ・モウラリーア』の歌詞は、いかにもメロドラマ主題歌といった
「やらせ」っぽいものだが、ここまで見事だと
フィクションが現実を超えた魔法を生み出す。
ことばがみんな生きていて、いいひびきだ。

Ai Mouraria
Da velha rua da Palma
Onde eu um dia
Deixei presa a minha alma
Por ter passado
Mesmo ao meu lado
Certo fadista
De cor morena,
Boca pequena,
Olhar trocista.
Ai Mouraria
Do homem do meu encanto
Que mentia
Mas que eu adorava tanto . . .
アィ! モウラリーア
古いパウマ通りのある街
そこへ わたしはある日
魂をとりこにされて 置いてきた
それというのも
わたしのすぐそばを
とあるファディシュタが通り過ぎたから
――色は浅黒く
小さな口で
人をあざけっているような目つき。
アィ! モウラリーア
わたしを魔法にかけた男の街
彼は嘘つきだった
でもわたしは あんなに心を奪われてしまって……

これは19世紀のモウラリーアをうたっているので、
ファディシュタというのは、やくざ者の同義語である
(このことについては、あとで触れよう)。
このマイナーの第1部の終わりは、
その恋を風が吹き飛ばしてしまったと語り、
メジャーの第2部になる。
昔のモウラリーア回顧の、なんだか説明的すぎるところもある歌詞だが、
最後はきっちり決めて、泣かせる。これがプロの作詞家の腕だ。
また、メロディの魅力や、うたいかたで、
詩として少々は散漫でも、聴かせてしまうのです。
歌曲では、ことばのひびきの快さは、意味よりも大事な要素かもしれない。

Ai Mouraria
Dos rouxinóis nos beirais,
Dos vestidos cor-de-rosa,
Dos pregões tradicionais.

Ai Mouraria
Das procissões a passar,
Da Severa em voz saudosa,
Da guitarra a soluçar.
アィ! モウラリーア
瓦屋根の先にナイティンゲールたちが止まる街
ローズ・ピンクのドレスの街
昔ながらの物売りの声の街。

アィ! モウラリーア
聖体行列が通ってゆく街
懐かしい声のセヴェーラの
すすり泣いているギターラの街。

ピンクのドレスとは遊び女たちのことだろう。
セヴェーラについては、このあとで書くが、
ファドの歴史の最初の時期の、
もっとも有名な女性の歌い手だ。
『アィ・モウラリーア』の曲ができた百年ちかい昔に死んでいるので、
「懐かしい声」なんて嘘もいいところだが、
ファドを愛するファンは「そうだ!」と共感してしまうんですね。


§ モウラリーアの虚構と真実

ファドが生まれたのは、リスボンの各所にある、
男たちが酒と女を求めて来る、夜の歓楽地区だった。
リスボンは小さな街なのに、
そういうスポットはかなり多く点在していたみたいだ。
そんな地区の中でも、モウラリーアが後世、とくに有名になったのは、
マリーア・セヴェーラ Maria Severa (Lisboa 1820 - 46) という
ファドをうたう女性がいたからだ。
セヴェーラというのは姓ではなく、父親の名前からとった
通称のようなものらしい。定冠詞をつけて
「ア・セヴェーラ」と呼ばれることが多いようだ。
セヴェーラについては別記事(まだ書いてません)にゆずるが、
いまの日本で言う「カリスマ」をもった個性的な女性で、
美貌と素晴らしい肢体、そしてファドの歌で有名だった。
さらに、第13代ヴィミオーゾ伯爵 Conde de Vimioso (Lisboa 1817 - 65)
愛人だったことで名高い。
彼女が死んだとき、ちまたでうたわれた歌詞が多量に、
記録や口伝えで今日まで伝わっている。
さて、時は流れ、ジューリオ・ダンタシュ
Júlio Dantas (Lagos, Algarve 1876 - 1962 Lisboa) という人物が登場する。
後には政治家になり、国民党を率い、大臣になり、
1940年代にはブラジル大使をつとめた。
彼は若いころ文学青年で、浪漫主義に傾倒し、
セヴェーラのことを小説に書いた。
そして、1901年には戯曲 «A Severa» として上演。
これは大成功だった。
一言でいえば、ポルトガル版『椿姫』である。
身分違いの悲恋物語……。
ヴィミオーゾ伯爵の子孫から抗議されたので、
もう家系の絶えた別の伯爵の名前にしたが、
だれのことか人々はわかっている。
つまり登場人物は戯曲の半世紀前に実在していた。
したがって実話のように思えるけれど、完全にフィクションだ。

セヴェーラの時代は、ファドをうたう女性は全員が売春に関係していた。
男性のファディシュタ(女性よりはるかに多数だった)は、必ずしもそうではなく、
いちおうカタギの仕事をしていた人が多い。
でもファドのうたわれる場所は、売春地区だけだったので、
ファディシュタは一般社会からは犯罪者のように見られていた。
ファディシュタということばは、
現在はふつうに「ファド専門の歌手」という意味で使われている。
20世紀初めまでは(?)「ファドの歌い手」という言いかたのほうが一般的だったようだ。
男性なら cantador de fado、女性なら cantadeira de fado
1920年代には、ならず者という意味を含まないで「ファディシュタ」という
ことばも通用したようだ。呼びかたなど、どうでもいいことだが……。

実際には、セヴェーラと伯爵の関係は、
「道ならぬ恋」とかいったロマンティックなものではなく、
単に遊女とお客の関係だった。
伯爵は、馬上闘牛の達人でもあった遊び人で、
セヴェーラ以外にも愛人がいた。
セヴェーラは、当然、たくさんの男性と関係をもっていた。
でも、ひとびとは、事実のせんさくよりも、
ロマンティックなお芝居のほうを信じたかったのだろう。
……そうそう、ダンタシュは、話を盛り上げるために
セヴェーラをシガーナ(ロマ、いわゆるジプシー)にした。
彼のデッチアゲではなく、以前から、
そういう噂が飛びかっていたのかもしれないけれど。

1903年に «História do Fado»(ファドの歴史)という本が出版された。
劇『ア・セヴェーラ』の話題が、そんな本が出るきっかけになったのかもしれない。
著者ジョゼ・ピント・ド・カルヴァーリョ José Pinto de Carvalho (Lisboa 1858 - 1930)
ファドの誕生直後の時代を生きてきたのに加えて、
多量の昔の文書を調査し、セヴェーラの同時代からの生き残りの
人々からの話もたくさん聞いて、この最初のファド研究書を書いた。
セヴェーラの実像も正しく描かれている。
それなのに、芝居のセヴェーラのイメージが、今日までも
大多数の人によって信じられている。いやはや!

劇『ア・セヴェーラ』は、原作者ダンタシュの台本で、
1906年(?)にオペレッタ化され、これも大成功。
その後、なん度か上演されたようだ。
そして、1931年には、ポルトガルで初めての
トーキー(音の出る)映画になった。
監督は レイタォン・ド・バーロシュ Leitão de Barros
(Lisboa 1896 - 1967)。パリで撮影された。
リスボンには、まだ、スタジオなどトーキー映画のつくれる設備がなかったのだろう。
パリのスタジオに、モウラリーアの街のセットを組んだわけだ。
脚本には、なんと! ルネ・クレール
René Clair (Paris 1898 - 1981 Île de France) も参加している。
主演は、うたえる女優だったらしいディーナ・テレーザ
Dina Tereza。彼女の活動については、わたしには、ほとんど記録が見つからなかった。
音楽は、後にポルトガルのクラシック音楽界の最重鎮となる フレデリーコ・ド・
フレイタシュ Frederico de Freitas (Lisboa 1902 - 80) が担当した。
フレイタシュは、作曲や編曲指揮で、ファドなどの
ポルトガル・ポピュラー音楽にもいい仕事を残した人だ。
この映画の主題歌と呼べる曲が«Novo fado da Severa»
セヴェーラのファドふたたび。直訳=セヴェーラの新しいファド)で、
昔のファドのスタイルをそのまま生かしたとは思えないけれど、
美しい、魅力の香りをもった抒情歌曲だ(作詞はダンタシュ)。
歌詞の最初の1節は、セヴェーラがひとりで、
伯爵の来るのを待っている情景が目に浮かぶ。
ロズマニーニョは、(ローズマリーではなく)ラヴェンダーの1種で、
花と葉が、よい薫りをもっているハーブ。

Rua do Capelão
Juncada de rosmaninho,
Se o meu amor vier cedinho
Eu beijo as pedras do chão
Que ele pisar no caminho.
カペラォンの通り
ロズマニーニョが撒き散らされた通り
もしわたしの愛する人が朝早くやってきたなら
わたしは地面の石たちにキスする
彼が道すがら踏んでいった石たちに。

カペラォンの通りはモウラリーアに実在し、
実際にセヴェーラが住み、そこで亡くなった家があった。
伯爵の持ち家だったので家賃は払っていなかった。
それにしても、この通りは、元 Rua Suja
(汚い通り)という名前だったそうだから、
道の石にキスするのはまずいのでは?
壁にはめ込まれている祭壇のようなものがあったので、
カペラォン(礼拝所)と改名したとのこと。
酒場兼売春宿が並び、夜は、ポルトガルとイギリスの船員たちが
やってくる、なかなか華々しい通りだったらしい。
ただしこの通りは、19世紀末には、さびれて、
セヴェーラの時代の面影はまったく消えてしまった。

劇『ア・セヴェーラ』は、1955年に改訂版が上演された。
主演はアマーリア・ロドリーゲスさん。
彼女は『セヴェーラのファドふたたび』を録音しているが、
この劇中でうたったのだろう。

フランスでデュマ・フィスの小説『椿姫』が発表されたのが1844年、
それによるヴェルディ作曲のイタリア・オペラ『ラ・トラヴィアータ』が1853年。
リスボンで、マリア・セヴェーラが亡くなったのが1846年……。
椿姫ことマルグリット・ゴティエ(オペラではヴィオレッタと改名)は
華やかな社交界に出没するハイクラスな人生、
セヴェーラは貧しいモウラリーア地区に住み、
椿姫と同様に結核で、「汚い通り」の家で死んだ。
彼女たちの悲恋の宿命のフィクションが
ひとびとの心を揺さぶった。
セヴェーラの住んでいた街モウラリーアは、
遠く悲しい美しさをたたえた幻の風景のように、
ファドのうたの中に、いつまでも生きつづけている。

ここで、『セヴェーラのファドふたたび』の、
映画で使われた歌をちょっと聴いてみてください。
1931年初めのパリ録音だそうです。
歌手はもちろん、主演のディーナ・テレーザ
伴奏メンバーの記録は残っていません。
MP3ファイルです。
«Novo Fado da Severa» Dina Tereza

映画『ア・セヴェーラ』のシーンを見たいですか?
YouTubeにあります。
これはあまりにも美化されたイメージであることをお忘れなく!
ここをクリック

ruaMouraria

●今日のモウラリーア通りとサウード階段。
ここから上の一帯がモウラリーア地区で、
カペラォン通りはこれより左のほう、
モウラリーア通りから登ってゆく道。
そのあたりは近年、犯罪多発地域になった。
foto ©2009 Marie Mine


§ ファド・モウラリーア

モウラリーアのイメージを印象づける
美しいファドの曲はまだほかにもあるが、
今回はこれだけにして、
「ファド・モウラリーア」という形式について書いておこう。

このスタイル(メロディのタイプ)は、モウラリーア地区で生まれたのだろう。
19世紀後半に、すでにこの名前があった。
本来は「モウラリーアのファド Fado da Mouraria 」と呼ばれたが、
業界では単に「モウラリーア」とか「ファド・モウラリーア」
という略称が通用している。
ファド・モウラリーアは、ファドのメロディ・ラインの1形だ。
メロディの流れのデッサンといったらよいのだろうか?
歌い手は、そのデッサンをもとに
細部を自分流にして、絵として完成させる。
どのように変えたら、ファド・モウラリーアの分類から外れた
別のスタイルのメロディになるのか?
このへんは、人によって基準がちがう。
たとえば、1930年代のレコードを聴くと、おなじメロディを
掛け合いでうたうと Fado Corrido ファド・コリードと呼び、
ひとりでうたうとファド・モウラリーアだったりする
(ひとりでうたうファド・コリードもある)。
ファド・モウラリーアのヴァリエーションのひとつは、
作者の名を取って Fado Vianinha ファド・ヴィアニーニャと呼ばれたり、
その差を無視してファド・モウラリーアの名前で統一(?)されたり……。
一般常識(?)として言えることは、
ファド・モウラリーアとは、ファドのもっとも単純で基本的な
曲のスタイルであり、それをもとにした変種には、
別の名前をつけてもいい――といったところ。
その「もっとも基本的で単純なスタイル」とはどんなものかというと
――規範はあるが、規則ではない。例外が許される。――
●8シラブル(最後の音にアクセントがあれば7シラブル)の
quadra クワドラ(4行詩)がうたわれる。
詩は最初に文字に書かれるのではなく、
口から出る音が先だ。だから「行」という言いかたはよくないが、
お許しください。この2行めと4行目は脚韻を踏む。
●一般的には、音楽は長調(メジャー)である。
●メロディの流れ、曲構成は――
(1)第1行――主和音(トニック)⇒属7和音(ドミナント7th)に流れる。
(2)第2行――属7⇒主。
(3)=歌詞(1)(2)の繰り返し、メロディはほとんど同じ。
(4)第3行――主⇒属7。メロディは、より起伏に富む(ほんの少しですが)。
(5)第4行――属7⇒主
(6)=歌詞(4)(5)の繰り返し。メロディの起伏は、少ない。
このあと、次の4行詩がうたわれ、どこまでもつづく。
歌詞は、必ずしも筋書きのある物語でなくていいので、
即興的に、思い出したものをうたっていってよい。
また繰り返しは、歌い手の技術により、
そのたびに違うフレージング・節まわしでうたう。
その場で変奏していくようなものだ。
ただし、歌詞がたくさんある場合、
しつこいし、変奏にも限界があるので、
2行ずつ繰り返すのはやめるときもある。
……そんなところだが、ギターラ(ポルトガル・ギター)でも、
この音楽構造にもとづく演奏パターンがあり、
定番になっているものもある。
それらは歌の前奏に使われることが多い。
歌のバックでは、音数が多すぎて邪魔なので、
奏者の美意識で判断して、
より単純にしたり、いろいろ工夫される。
いっぽう、ギターラ演奏用のファド・モウラリーア変奏曲あるいは練習曲では、
より複雑な、弾き応えのある音楽を求めて、
下属和音(サブドミナント)も導入しているようだ。
この和音は(あるいは他の和音でも)、
歌い手の感じているメロディと調和すれば、
先ほどのパターンの(4)のところに使える。
でも、ファド・モウラリーアと呼ぶときは、
いちばん単純な形がいいと、わたしは思う。
ファドの原点イコール・モウラリーアということにしておきたい。
原点はファド・コリードと呼ぶほうが、正しいのでしょうが……。



「うたを もっと 感じるために」

目次

© 2008 Masami Takaba



tangamente
峰万里恵のページ 入り口
 
峰万里恵 活動のおしらせ
inserted by FC2 system