「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美



ムーチョ・コラソーン
〜 ありあまる心 〜

ボレーロとメキシコ女性作者 <下>



§ ベサメ・ムーチョ(わたしにたくさんキスして)

ConsueloVelazquez

コンスエーロ・ベラースケス
(SACM=メキシコ音楽作詞作曲家
協会のサイトより転載)

世界一有名なボレーロ(だと思う)
«Bésame mucho»ベサメ・ムーチョ
=わたしにたくさんキスして)の作者は
メキシコ女性、コンスエーロ・ベラースケス
Consuelo Velázquez
(Ciudad Guzmán, Jalisco 1916 - 82 México D.F.) だ。
幼い子どものころに、ハリスコ州都
グワダラハーラに引っ越して、
そこで大きくなった。上流階級の家で、
サロンにはピアノがあった。

3つか4つのころ、彼女はピアノの前に立って、
聴き覚えたメロディを鍵盤でたどって弾けるようになった。
最初に弾いたのはメキシコ国歌!
(お父さんは軍人だった)
両親は、彼女に音楽家(ピアノと作曲)の素質を認めて、
優秀な教授たちに学ばせた。
1938年には、コンスエーロさんは、クラシックのコンサート演奏家としての
国家資格を取得した。
その試験となる演奏会は、首都の芸術宮殿
Palacio de Bellas Artes(国立劇場に相当)で開かれたのだそうだ。
この前後から彼女はメキシコ市に住むようになったと思われる。
国のオーディションに合格したコンスエーロさんは、
XEQ放送局で定期的な番組をもつようになった。
そして局の番組制作部長だったマリアーノ・リベーラ・コンデ
知り合う。リベーラ・コンデは、やがてレコード会社RCAの音楽監督になり、
ふたりは1944年に結婚した。

とつぜん話の腰を折って申し訳ありませんが、
生前のコンスエーロさんの公式(?)資料では、彼女の生年は
つねに1926年となっておりました。つまり、
ちょうど10才サバが読まれていたのです。
それだと、たとえば『ベサメ・ムーチョ』は
15才くらいでつくられたことになる……。
わたしの書いた本『ラテン音楽おもしろ雑学辞典』に出てくる
キスのエピソードなどは、話を面白くするための嘘だったわけです。
そんな嘘も書いてしまいましたが、この本をよろしくお願いいたします。
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さて、«Bésame mucho»ベサメ・ムーチョ
=わたしにたくさんキスして)は、1940年に作詞作曲された。
メロディのインスピレーションは、スペインの作曲家
エンリーケ・グラナードス Enrique Granados
(Lleida 1867 - 1916 English Channel) のオペラ(1916年1月初演)
«Goyescas»ゴジェスカス)の中の
有名な1曲から受けたのだそうだ。
このアリアの原曲は、同じ作曲家による超・美しくて、超・演奏困難な
ピアノ独奏曲だ。コンスエーロさんは、このピアノ曲のほうにも、
かなり思い入れがあったのではないかな?

Bésame, bésame mucho
como si fuera esta noche
la última vez.
Bésame, bésame mucho,
que tengo miedo perderte,
perderte después.
わたしにキスして たくさんキスして
今夜がほんとうに 最後だと思って
わたしにキスして たくさんキスして
わたしはこわい あなたを失うのが
このあと あなたを失うのが。

この曲が発表されたのは1940年。
翌年にメキシコの男性歌手によるレコードが発売された。
(41年は太平洋戦争が始まった年。わたしが生まれた年でもある。ため息……!)
ヒットしたのは、アメリカでレコードが発売された1944年だ。
シングル・チャートに入ったのは、男女の歌手が入った、ジミー・ドーシー
Jimmy Dorsey (Shenandoah, Pennsylvania 1904 - 57 New York)
のオーケストラによる録音。
ソロ・シンガーによるものでは、アンディ・ラッセル
Andy Russell (Los Angeles 1919 - 92 Sun City, Arizona) のレコードが第1号だった。
アンディはメキシコ移民の息子で完璧にスペイン語が話せたが、
最初の録音は英語ヴァージョンの歌詞だったと思う。
英語版は、サニー・スカイラー Sunny Skylar (New York 1913 - ??) の訳詞(?)だ。
彼は超大手のサザン楽譜出版社で
外国曲に歌詞をつけるのを専門にしていた。
後年、ブラジルやアルゼンチンに住んだとのことなので、
ことばは、そこそこに堪能だったのだろうが、
アメリカの楽譜出版社の求める歌詞は、
とにかく単純なことが要求されるみたいだ(現在でも)。
『ベサメ・ムーチョ』という部分だけは生かして(笑)、
ほかは、まったくありきたりの英語歌詞である。
ともあれ、スカイラーの英語歌詞、ラッセルのうたで、同時期に、
やはりメキシコ製のボレーロ «Amor»アモール=愛)も
ヒットした。こちらの曲は、ビング・クロスビー
Bing Crosby (Tacoma, Washington 1903 - 77 Madrid) 版が先に売れていたようだ。

『ベサメ・ムーチョ』の歌詞のアピール・ポイントは
「今夜が最後だと思って」という、せっぱつまった
シチュエーションにある。
“Como si fuera esta noche la última vez . . .”
この部分の歌詞は、スペイン語のポピュラー音楽史上
もっとも有名だといえる。だれでも知っている!
パーティなどで、「おまえ食いすぎだよ。まるで今夜が
最後みたいに!」なんて使われるほどだ。
この曲がアメリカでヒットしたのは、
第2次世界大戦に出かける兵士とその恋人の
別れのダンスの心境にダブったからだという説がある。
わたしはほとんど信じない。
英語の歌詞には、そんなニュアンスは感じられないからだ。
ヒットしたのは、メロディに魔力があったから、そしてタイトルも
外国人に受ける魅力があったのだろう。
この歌詞は、ある病院でコンスエーロさんが耳にした会話の断片に
インスピレーションを得たといわれる。
もう命いくばくもない患者と、その恋人だか家族の話を偶然聞いて、
感動して書いた歌詞だそうだ。
これも作られた伝説かもしれないが、わたしは信じたい。
この話は、コンスエーロさん自身の口から聞いた
チューチョ・デ・メヒコ Chucho de México さんから、
わたしは又聞きした。
チューチョさんは、もとヴォーカル&インストルメンタル・トリオ、
ロス・デルフィーネス Los Delfines のメンバーで、いまは日本に住んでいる。

チューチョ・デ・メヒコ(ヘスース・オロアールテ)さんの、
お話(日本人の奥さんの通訳つき)をまじえた、
ギター弾き歌いとアルパ・ソロによる、メキシコとラテン各国の音楽の
ワンマン・ショーが、くつろいだカフェでたのしめます。くわしくは下記をごらんください。
チューチョ・デ・メヒコ公式ページ

コンスエリート(コンスエーロちゃん――
彼女は亡くなるまで、この愛称で呼ばれていた)は
華やかな顔立ちの、典型的な(?)ラテン美人だった。
わたしが彼女をチラッと見た(ごあいさつもした)のは、
もう60代になっていたころだろう。
わたしは彼女の年令を10才若く信じていたのだが、
それよりもさらに10才くらい若く見えた。
わたしの女性を見る目なんて、もともとあてにならないが……。
テレビ出演のピアノ・ソロの画像が残されているが、
派手な名人芸スタイルの編曲で『ベサメ・ムーチョ』を弾き、
魅力たっぷりに聴かせるし、「見せる」。
この曲ほか数曲のレコード録音もしたが、
いわゆる演奏活動は、一度もしたことがないように思われる。
レコード会社の重役の奥さんになり、作詞作曲だけしていたのだろう。
後年はSACM(メキシコ作詞・作曲家協会)の会長になり、
パリに本部がある
国際作詞・作曲家連盟の副議長・議長もつとめた。
これらは女性としては史上初で、現在のところ唯一の例である。
コンスエリートの名声、人気は、
ただただ『ベサメ・ムーチョ』1曲から来ているということに
疑いはない。
でも、ボレーロ «Amar y vivir»愛することと生きること)、
息子にささげたチャチャチャ «Cachito»カチート
など数々の曲がいまも愛され、うたわれつづけている。


§ テ・キエーロ・ディヒーステ(あなたを愛すと あなたは言った)

MariaGrever

マリーア・グレベール

マリーア・グレベール María Grever
(León, Guanajuato 1884 - 1951 New York, USA) の姓は、
アメリカ人の夫のもので、正しくは
Greever(グリーヴァ)なのだそうだ。
でも彼女は、すべての曲の著作権を、よりスペイン語らしい
(スペイン語にそういう姓はないけれど)
グレベールというペンネームで登録しているので、
音楽家としてはこの名前が「正しい」のである。
生まれた場所や時に関しては、いくつか説があったが、
上記のものが正解ということに決めていいだろう。
出生届・洗礼証書も発見され、生家の番地も判明している。
現在グワナフワート州レオーン市のホールは彼女の名をつけている。
父はスペインのセビージャ出身の大地主で、
彼女は赤ん坊のころは、
父が農園をもつハリスコ州ラゴ・デ・モレーノスに住んだ。
母はサカテーカス出身のメキシコ人、
その母の両親はスペイン人だったらしい。
そして3才のとき、一家はスペインに移った。
彼女が大西洋航路の船上で生まれた
という伝説はここから出ている。
裕福で文化的な家庭だったらしく、
彼女はパリに行って、偉大なクロード・ドビュッシーや
フランツ・レハールに教えを受けたという伝説がある。
もっと後年のことなのか? この伝説を否定できる証拠はないのだけれど……。
いずれにしても彼女は、ポピュラー音楽のソングライターに
必要という以上の高度の音楽知識をもっていたことは確かだ。
ハリウッド映画のスコアも書いたし、
未上演だが管弦楽つきのオペレッタも作曲していた。

マリーアさんの伝記は明らかでない部分がとても多い。
彼女の伝記映画が、亡くなった直後にメキシコでつくられたが、ほとんどフィクションみたいなもの。
以下の確実な(と、わたしが思った)情報のソースは、レオーン市の公式サイト。
――各地の地方自治体のホームページの「郷土が生んだ有名人」といった題の記事は、
わたしがこれまで見てきた中では、たいへん頼りになる。

さて、マリーアさんは、父の死後、母とともに
メキシコに帰ってきて、首都に住んだ。
「確実」と思われる資料によれば、14才のとき
メキシコ市のある声楽の学校(塾のようなものか?)に
入ったそうだ。
主宰者である先生は、彼女の伯母に当たる人だった。
それ以前のスペインにいたときから、クラシックのピアノや音楽理論を
正式に学んでいただろう、とわたしは推察する。
そのころから作詞作曲をしていただろうと思う。
彼女の最初に出版された曲は «Bésame»(わたしにキスして)
――1925年というから、彼女はもう41歳である。
ずっと前にできていた曲らしいが、
彼女のプロ音楽家としての活動は、
人生のなかばを過ぎてからのことだったわけだ。
それまでは?……単なる奥さんだった。
マリーアさんは、ベラクルース州ハラーパ市に住んでいたとき、
アメリカン石油会社の経理担当として赴任してきていた
アメリカ人グレベール氏と知り合い結婚した。
(彼の名前は、León Augusto Grever
スペイン語で書かれているが、メキシコ系だったのかしらん?
オハイオ州シンシナティ出身だそうだ)
後に夫の仕事の都合でニューヨークに住んだり、
メキシコに帰ってきたり……
4人の子どもができたが、そのうち3人は幼くして亡くなってしまった。
マリーアさんの曲に、いつもメランコリー、
悲しみがあるのは、そのせいだと説く人たちがいる。

40代でプロ音楽家になったマリーアさんは、
すぐに大ヒットを出した。1926年に、ニューヨークで
当時最高のメキシコ人歌手、ホセ・モヒーカ
José Mojica (San Gabriel, Jalisco 1895 - 1974 Lima, Perú) に出会い、
彼がすばらしい声でうたったことで、«Júrame»(わたしに誓って)が絶賛を浴び、
作詞作曲家マリーア・グレベールの名前が注目された。
彼女の作品すべてがそうだが、男性がうたう歌詞になっている。
女性が男性に愛を告げる歌なんか
ラテン世界では存在できなかった時代である。

Todos dicen que es mentira que te quiero,
porque nunca me habían visto enamorado.
Yo te juro que yo mismo no comprendo
el porqué tu mirar me ha fascinado.
. . . . .
Júrame,
que aunque pase mucho tiempo
no olvidarás el momento
en que yo te conocí;
mírame,
pues no hay nada más profundo
ni más grande en este mundo
que el cariño que te di.
みんなが言う わたしがあなたを愛しているのは嘘だと
なぜなら わたしが恋しているところは 一度も見たことがないからだと
わたしはあなたに誓う じぶんでもわからないと
あなたのまなざしがわたしを魔法にかけた理由が。
…………
わたしに誓って
たとえ長い時が過ぎても
あなたはあの瞬間を忘れないだろうと
わたしがあなたを知ったあの瞬間を。
わたしを見て
なぜなら この世に
わたしがあなたにあげた愛情ほど
深く また大きいものは ないのだから。

この曲をうたったホセ・モヒーカはテノール歌手で、
並外れた向上心と研究熱心さで、あのエンリコ・カルーソにも認められ、
ニューヨークで活躍していた。
オペラ、サルスエーラ(スペイン歌劇・オペレッタ)、ポピュラー音楽のジャンルで、
さらにギターや演技も学んで、映画スターでもあった。
大富豪といえるほどお金をかせいだが、
1942年の母の死が直接のきっかけで、すべての富を捨て
フランシスコ派修道士になり、その後はおもにペルーに住んだ。
司祭になってからも、教会の資金調達のためステージに立つことが
たまにあり、またグレベールの伝記映画にも出演している。
なお、ボレーロの名作 «Solamente una vez»
ソラメンテ・ウナ・ベス=ただ一度だけ)は
彼が母の死によって宗教生活に入るのを知ったアグスティーン・ララ
Agustín Lara (Tlacotalpan, Veracruz 1900 - 70 México D.F.) が、
モヒーカのためにつくった曲だそうだ。
生涯にただ一度の愛は、母への愛だったんですね。
そういえば、歌詞にも教会の鐘の音が出てくるし……。
もちろん、うたう人は別の解釈表現をしてもいいのですが。

マリーア・グレベール作詞作曲のいちばん有名な曲は
«Te quiero, dijiste»テ・キエーロ・ディヒーステ
=あなたを愛すと、あなたは言った)だろう。1929年発表とのこと。

Te quiero, dijiste,
tomando mis manos
entre tus manitas
de blanco marfil.
あなたを愛す――と、あなたは言った
わたしの両手を
白い象牙の
あなたの小さな両手のあいだに取って……

というのが導入部。アメリカのポピュラー・ソングではヴァースと呼ぶ、
前歌のようなパートだ。つづいてリフレーン、日本でいう「サビ」の部分になる。
オペレッタやミューカル・コメディの中心曲のほとんどが、
こういう作りかたをされている。まずそのシーンの状況を語り、
つづいて直接、相手に語りかけるのである。

Muñequita linda,
de cabellos de oro,
de dientes de perlas,
labios de rubí.
. . . . .
Sí te quiero mucho,
mucho, mucho, mucho,
tanto como entonces,
siempre hasta morir.
きれいなお人形さん
黄金の髪の毛
真珠の歯並び
ルビーのくちびる。
…………
そう わたしはあなたを愛す
たくさん たくさん たくさん
あのときと同じように
いつも 死ぬときまで。

この曲は、1944年にハリウッド映画 “Bathing Beauty“――邦題『世紀の女王』――に
使用されたとき、«Magic is the Moonlight» (月光、それは魔法)という英語題と、
英語の歌詞が付けられた(作詞:チャールズ・パスクアーレ Charles Pasquale)。
映画は、当時はアメリカと戦争していた日本では公開されず(当然!)、
ほとんど10年ほど後に日本に来た。
そこそこの話題になったと思う。今もDVDが発売されている。
でも、曲の英語の題名と歌詞は、その後は、かえりみられないようだ。
テ・キエーロ・ディヒーステ』のスペイン語タイトルと、スペイン語の原詞は、時代を超えて
生きつづけ、今もボレーロの、あるいはラテン音楽のスタンダード曲として愛されている。

マリーア・グレベールの、その次に(?)有名な曲は
«Cuando vuelva a tu lado»(わたしが、あなたのそばに帰るとき)だろう。
1934年に発表された時点で、すでに
英語のタイトル «What a diff'rence a day made»
(たった1日で、なんと大きな違いができたことか)と、
スタンリー・アダムズ Stanley Adams (1907 - 94) による
英語の歌詞が付いていた。
アメリカのダンスバンドや、『ベサメ・ムーチョ』にちなんでさっき紹介した歌手
アンディ・ラッセルのレコードが売れた。
スペイン語歌詞は、もちろん作曲者マリーアさんが書いた。
原作では、「わたし」は男性、「あなた」は女性である。

Recuerdas aquel beso
que en broma me negaste,
se escapó de tus labios sin querer;
asustado por ello buscó abrigo
en la misma amargura de mi ser.
. . . . .
Cuando vuelva a tu lado
y esté sola contigo,
las cosas que te diga
no repitas jamás,
por compasión.

Une tu labio al mío
y estréchame en tus brazos,
y cuenta los latidos
de nuestro corazón.
あなたは思い出す
冗談にして わたしにこばんだ あのキスのことを、
そのことでこわくなったあなたは 隠れ場所を求めた
わたしの存在がもっている にがい悩みそのものの中に。
…………
わたしが あなたのそばに帰るとき
そしてわたしが あなたとふたりきりのとき
わたしがあなたに言うことを
決してまたほかの人に言わないでください
わたしを憐れと思って。

あなたのくちびるを わたしのくちびるに合わせ
あなたの両腕でわたしを抱きしめてください
そして数えてください
わたしたちの心臓の鼓動を。

この曲の英語の歌詞の作者スタンリー・アダムズは、強大な著作権団体ASCAP
(アメリカ作曲・作詞・出版者協会)の会長を、1953-56年、59-80年につとめた。
英語ヴァージョン――邦題『縁は異なもの』――は、彼が2度めに会長になった1959年に、
ダイナ・ワシントン Dinah Washington の歌でリヴァイヴァル大ヒットした。
そこに、なにか政治的圧力(?)のようなものを感じるのは、
わたしの考えすぎか???
曲がヒットするのに、いちばん重要なのは作者と聴く人々の共感であり、
アーティストの魅力も不可欠の要素ではある。
しかし、楽譜出版社、レコード会社や、それらの周辺の、
いわゆる音楽産業の影のパワーは、ものすごく強い影響をおよぼす。
(なお『縁は異なもの』については、短くておもしろく、ためになる次のサイトをお読みください。
英語歌詞と訳も載っています。日本語です。ここをクリック
また、この題は近年は «What a Difference a Day Makes» とされることが多いです。
diff'rence としないと詩形(シラブル数)が狂うのですが)

1943年に、マリーア・グレベールは、ニューヨークのカーネギー・ホールに
メキシコのテノール歌手 ネストル・チャイレス Néstor Chaires
聴きに行った。そこで彼女の作品 «Vida mía»
(わたしの命)が見事にうたわれたのに感激して、脳出血を起こしてしまった。
その後、左半身が不自由になったが、
49年にメキシコ市で、自作を演奏するオーケストラを
車椅子から指揮するコンサートを開いている。
51年末に、ニューヨークで多数の胆石を取る手術の5日後に急死。
67才。遺体はメキシコに帰ってきて、首都のスペイン墓地に埋葬された。


「うたを もっと 感じるために」

目次

© 2008 Masami Takaba



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