「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美



ムーチョ・コラソーン
〜 ありあまる心 〜

――ボレーロとメキシコ女性作者 <上>



峰 万里恵さんのレパートリーには、
ロマンティックなラテンのうたを代表するジャンル、
《ボレーロ》が意外と少ない。
万里恵さんスタイルの、甘美さにおぼれないボレーロは、
わたしは好きなのだが……。
でも、こんどボレーロ «Mucho corazón»
ムーチョ・コラソーン=ありあまる心)をうたうというので、
メキシコの女性作者たちとボレーロについて
わたしが知っていること、感じることを書いておこう。
例によって、この記事と万里恵さんのうたとは、直接の関係はない。

その前に、ボレーロ bolero というジャンルについて
簡単にご紹介しよう。
まず昔スペインにボレーロという民俗舞曲があった。
現代では、これはスペイン古典舞踊(スペイン独自の
バレエのようなもの)の1種目として生きている。
フランス人作曲家ラヴェル
Joseph-Maurice Ravel (Ciboule 1875 - 1937 Paris) 作曲の
ボレロ』はオリジナルな創作だ。
リズムの型はスペインの原型に似てはいるが、
あまりにもテンポが遅い。
ラテンの歌曲ジャンル、ボレーロは、これらとまったく関係ない。
名前も、スペインから借りてきたのではなさそうだ。
(語源については2〜3の説があるが、不明というのが正解?)
細部をいろいろさかのぼれば、
どこかでスペインからの流れが入った部分もあるだろう。
ラテンアメリカ文化はすべてそうなのだから仕方ない。
でも実際的には、ことばはスペイン語でも、
音楽はラテンアメリカ独自のものだと感じられる。
ラテンのボレーロは、キューバの
トローバ Trova》と総称されるジャンルのなかの
ひとつの形態だった。
トローバは、ギターを弾きながらうたう、
田園の吟遊詩人の音楽である。
最初のボレーロというスタイル(19世紀)は、
ギター演奏だけのパートが、
歌のパートと同じくらい重要だったと伝えられている。
そこでは、ギターはクラシックの変奏曲のように、
いろいろな技法を聴かせたそうだ。
その後かなり長い時が流れ、ボレーロは、
汎カリブ海音楽(イコール汎ラテン音楽)のなかで、ほとんど唯一の
「歌曲」というか、ダンスのためのリズムを
必要としないジャンルになる。
楽器は「伴奏」するだけ。
ラテン音楽は、ほとんどどんな場合も歌手が入るが、
そこでは、歌手はソロ楽器のひとつとしてフィーチャーされる。
あるいは、コーラスとして、アンサンブルの1セクション。
――ボレーロでは、主役は歌手だけだ。
このように、ボレーロが「うた」として発展したのは、
キューバから海を渡って
メキシコにも広まったからだという説がある。
メキシコのユカタン半島の北東端から
キューバ島の西端までは200キロくらいしかない。
アメリカのマイアミとキューバの首都ハバナの距離と
だいたい(ほんとにおおざっぱな話ですが)同じ。
そのくらいキューバと近いユカタン半島には、
ユカタンは「ジュカタン」と発音されることも多い)
古くから、熱帯のロマンティックな歌ごころがあって、
それが、現在のような形のボレーロに影響しているとのこと。
わたしたちの知っているような形のボレーロは
キューバとメキシコの合作だと説く人たち(メキシコ人)がいる。
ボレーロのゆりかごは、キューバとメキシコだったと言うのである。
わたしは「そう言ってもいいな」と思っているけれど、
キューバ人は、この説は聞き流しているようだ(大笑い)。
わたしたち外国人は、本家争い(?)に口をはさむのはよそう。

じつはメキシコのユカタン州にも
トローバ》と呼ばれる音楽スタイルが、深く根づいている。
歌とギターによるトロバドール(吟遊歌手)の音楽だ。
ユカタン人はメキシコ国内よりも、海を渡ってきたものに心をひかれるらしく、
20世紀のはじめごろから、独自の形をもつようになってきた
『ユカタンのトローバ Trova yucateca 』の主要ジャンルは
キューバから来た《ボレーロ》、エクアドールのアンデス地域の舞曲
《パシージョ》を改名した《クラーベ clave 》、
そしてコロンビアのやはりアンデス地域から来た
《バンブーコ bambuco 》の3種である。
バンブーコは、コロンビアの国民音楽といわれるほど独自のものなのに、
ユカタン人はまったく自分たちの音楽にしてしまい、
よその土地の人には捕らえられないほど変てこなリズムの乗りかたも、
まったく本場のとおりに会得した。
バンブーコ・ユカテーコと呼んでいるが、
コロンビアのバンブーコとまったく同じもの。
これら3種は、完全にユカタン音楽の伝統になってしまった。

それはそれとして、キューバではつねに
ダンスのできる音楽が優勢だったし、
いまも、これからもそうだろう。
ひとりのアーティストが、ボレーロのリズム
というか、そのスタイルの曲だけで、
たとえばLPアルバム1枚、12曲並べるなんてことはありえない。
キューバやプエルトリコでは、
ボレーロにもソン・モントゥーノの、強いリズムや、
長い即興パートを加えて盛り上げるスタイルができた。
それから「フィーリン fílin 」(英語フィーリングより)
というスタイルもできたが、
これはいわゆるジャズ的な和音を多用した
モダン感覚のうただ。
リズムはかすかに感じられるだけ、また、
しばしばまったく自由なので、
大多数のファンを獲得はできなかった。
フィーリン・スタイルでは、まったくダンスはできない。
……これらキューバのボレーロも
非常に重要なジャンルであることは承知しているけれど、
これからは汎ラテン大衆の好むボレーロについて書く。
その代表がメキシコにおけるボレーロだ。


§ メキシコのボレーロ

メキシコはラテンアメリカ屈指の「うた」の国だ。
なぜそうなったのか、だれも教えてくれない。
わたしも考えたがわからない。
とにかく、うたの国――
だから、ラテンの大衆の「うた」
(しつこく強調しておくが、ダンスのない「うた」)
ボレーロを愛し育てたのがメキシコだというのは、
当然のなりゆきだ。
今日のスタンダード曲となる
ボレーロのヒット曲が生まれはじめたのは、
だいたい1940年代からだが、
そういう有名曲のほとんどはメキシコ産だ。
世界一有名なボレーロは、«Bésame mucho»ベサメ・ムーチョ
=たくさんキスして)――作者はメキシコ女性
コンスエーロ・ベラースケス
この作者と曲については、あとで書く。
その次に(?)有名なボレーロ«Solamente una vez»
ソラメンテ・ウナ・ベス=ただ1度だけ)
の作者もメキシコ人で、アグスティーン・ララ
Agustín Lara (Tlacotalpan, Veracruz 1900 - 70 México D.F.)

ララは、1897年に首都=メヒコDF=メキシコ連邦特別区=
いわゆるメキシコ・シティで生まれたというのが
事実である。でも、ここでは彼が生前つねに主張していた
データのとおりにしておいてあげよう。
椰子の林をわたってくる熱帯の風に当たって、
ベラクルース地方の村で生まれたと、本人は信じたかったらしい。
年号については、ちょっとだけ若返るように、
キリのいい数字にしたのだと(わたしは)思う。

メキシコでは、《ボレーロ・ランチェーロ bolero ranchero 》という
新しいスタイルのボレーロが生まれた。
メキシコのフォルクローレの音楽感覚による歌謡曲を
カンシオーン・ランチェーラ(略してランチェーラ)と呼ぶ。
そのランチェーラを専門にする歌手が
ボレーロをうたうと《ボレーロ・ランチェーロ》になる。
伴奏は、いわゆるトロピカル音楽のスタイルではなく
郷土音楽のための楽団マリアッチ mariachi のサウンドになる。

マリアッチという呼び名は古くからあったが、
楽器編成が確立するのは1930年代ぐらいからだ。
一般的なマリアッチ・サウンドは、ヴァイオリン・セクション、
リズムをつくるギター類、コントラバスの代わりの超大型ギター《ギタローン》、
そこにトランペットなどの管楽器が加わる。
メンバーの一部はソロ歌手やコーラスを兼ねる。
原則として、打楽器は入らない。

こんなサウンドでボレーロをうたった最初のアーティストは、
エルマーナス(姉妹)・パディーヤ Hermanas Padilla
だとされている。
マリーアとマルガリータの姉妹はアメリカ合衆国、
南カリフォルニアの出身で(両親はメキシコ人だろう)、
同州からテキサス州にかけての、いまでいう
ヒスパニック・コミュニティのあいだで絶大な人気をもっていた。
レパートリーは、すべてメキシコ人がつくった曲である。
彼女たちが、1940年に、ロサンジェルスで、
初めてボレーロを郷土音楽サウンドの伴奏で録音した。
USA西海岸では、マリアッチも活動していたのだ。
まだ、ボレーロ・ランチェーロというジャンル名はなかったのだが……。

ボレーロ・ランチェーロという名前を付けたのは、
アルベールト・セルバンテス Alberto Cervantes
(Puebla 1923 - 2001 México D.F.)らしい。
彼は首都に来て、芸能人とか夜遊び人種(「セレブ」ですかね?)に
スーツを売るのが商売だったが、
うたが大好きだった。自分でも作詞作曲(といっても、
うたえるだけで楽譜には書けない)して、
洋服ではなくて、曲を売ることにした。
そこでお得意さんのコネをたどって、
マリアッチ・サウンドの確立者である音楽家ルベーン・フエンテス
Rubén Fuentes (Ciudad Guzmán, Jalisco 1926)
紹介してもらい、彼の監修・合作・編曲で、
1950年代の初めから
《ボレーロ・ランチェーロ》と形式名をつけたヒットを次々と出した。
曲自体も伴奏サウンドも大衆にアピールしたからヒットしたのだが、
成功の最大の要因はなんといっても、
歌手がペドロ・インファンテ
Pedro Infante (Mazatlán, Sinaloa 1917 - 57 Mérida, Yucatán)
だったからだ。
インファンテはランチェーラ歌手としてデビューし、
映画にも主演してスターになったが、
やがてランチェーラの枠を超えて、
『われら貧乏人』など、首都の貧しい大工や、ボクサーの
出世物語の映画で、国民的なスーパー・スターになっていた。
後に、人気絶頂のまま、自家用飛行機墜落(彼自身がパイロット)で
この世を去った……。
ただし、大衆はジャンル名なんて気に留めず、ただ
ペドロ・インファンテのうたに魅せられていたので、
ボレーロ・ランチェーロという命名が市民権を得たとはいえないようだ。

はっきりとボレーロ・ランチェーロというジャンル名が普及し
(正しく言えば、レコード会社が普及させ)、
メキシコ・ポピュラー音楽の代表になったのは、
インファンテの死後、歌手ハビエール・ソリース Javier Solís
(México D.F. 1931- 66) の登場による。
ソリースは、声もうたいかたも「ペドロ・インファンテそっくり」
というのを売りにしていた歌手だが、1958年に、
自身の個性的なうたを発見し、スーパー・スターになった。
ランチェーラの野性味とボレーロの甘美さのミックス、
ハスキーな声で表現される独自のスタイルの誕生だった。
最初の大ヒットは «Llorarás, Llorarás»
(きみは泣くだろう、泣くだろう)――作詞作曲は
ラファエール・ラミーレス Rafael Ramírez
ソリースに、彼自身の声とうたいかたを発見させた
プロデューサーは、フェリーペ・バルデース・レアール
Felipe Valdez Leal (Coahuila, Saltillo 1899 - 1988 Cuernavaca, Morelos)
である。古くからメキシコ音楽産業の中心人物のひとりで、
作詞作曲でも大ヒットを出したバルデース・レアールは、
以前からソリースの素質を認めて応援してきたが、
インファンテそっくりさんからの脱皮を助言・指導した。
彼もボレーロ・ランチェーロの創始者たちの
名簿に加えておくべきだろう。
ハビエール・ソリースの成功と同時期に、すでに大スターだった女性
ランチェーラ歌手 アマーリア・メンドーサ Amalia Mendoza
(San Juan Huetamo, Michoacán 1923 - 2001 México D.F.)
古いボレーロ «Mucho corazón»ムーチョ・コラソーン)などを、
ボレーロ・ランチェーロのスタイルでリヴァイヴァル・ヒットさせた。
この曲については、あとで書くけれど、
彼女もボレーロ・ランチェーロの代表アーティストである。
それ以上に偉大なランチェーラ歌手だが……。

その後はボレーロ・ランチェーロは大きな話題にはならなかった。
ただひとつ、ランチェーラ専門家ではないが、
「メキシコの太陽」と呼ばれるスーパー・スター、
ルイス・ミゲール Luis Miguel (San Juan, Puerto Rico 1970)
(父はスペイン人、母はイタリア人、外国生まれだが、20歳でメキシコ国籍を取得)
が、ボレーロ・ランチェーロでもヒット曲を出した。
ランチェーラ作者の「王様」ホセ・アルフレード・ヒメ−ネス
José Alfredo Jiménez (Dolores Hidalgo, Guanajuato 1926
- 73 México D.F.)
作の唯一の(?)ボレーロ
«Si nos dejan»(もしわたしたちを自由にさせてくれるなら)を
有名にしたのはルイス・ミゲールだ。

ボレーロ・ランチェーロとはまったく別の、
メキシコ・スタイルのボレーロ――こういう言いかたは
正しくないかもしれないが――を、
全ラテンアメリカの標準にしたのは、
トリオ・ロス・パンチョス Trío los Panchos 》だ。
このグループは、ソロ歌手または2重唱とギター
(ほとんどの場合、歌い手がギターも弾く)という
キューバやユカタンの《トローバ》スタイルを、
ボレーロの1表現法として定着・普及し、
ひとつの規範を確立した。
1944年にニューヨークで発足した
このトリオのメンバーは――まず、
リーダーでセカンド・ヴォイスとギター担当の
チューチョ・ナバーロ Jesús “Chucho” Navarro
(Irapuato, Guanajuato, 1913 - 93 México D.F.)
彼はアグアスカリエンテス州で育ったから、
環境からはランチェーラのジャンルに行ってもおかしくないが、
10代からルンバ・バンドなどでカリブ音楽の歌手だった。
次に、レキント(後述)奏者で、必要あればサード・ヴォイス担当の
アルフレード・ヒル Alfredo Gil (Teziutlán, Puebla 1915
- 99 México D.F.)
は、ベラクルース州育ちで、
この州はユカタンやカリブ海とつながりが深く、
彼のファミリーは、トローバ・スタイル系の歌手・ミュージシャンが多い。
以上のふたりがメキシコ人、もうひとりはプエルトリコ人の
エルナンド・アビレース Hernando Avilés (San Juan 1914
- 86 México D.F.)
。本物のカリブ海出身だ。
ソロと、コーラスのトップ・ヴォイスを担当。
ギターとかマラカスとか楽器を持つことはあったが、
ほとんど単なる飾りだった。うた専門である。

メキシコのボレーロの発展史とはまったく関係ないことなのかもしれないが、
ボレーロ・ランチェーロのスーパー・スター、
さっき話に出たハビエール・ソリースの素質を
いちばん最初に見つけて、レコード会社に紹介したり、応援したのは、
当時トリオ・ロス・パンチョスのトップ・ヴォイスだった
プエルトリコ人、フリート・ロドリーゲス
Julio “Julito” Rodríguez (Santurce 1927) だった。

《トリオ・ロス・パンチョス》は最初はニューヨークを拠点とし、
同地のヒスパニック社会から支持されて人気を得た。
大多数のファンの国籍はプエルトリコとドミニカ共和国だ。
レパートリーの中心は、当然カリブのダンス・リズムだった。
本質的にダンス音楽である曲目を、
ギター伴奏のうたで表現するというのは、
なかなか新鮮だったのではないかな?
キューバの首都ハバナのナイトクラブ出演も大好評だった。
でも、48年からパンチョスは、メキシコを本拠地に定め、
全ラテンアメリカの音楽市場に進出する。
そのころから、うたを聴かせるボレーロを、
ほとんど専門にするようになった。
甘美な、恋愛感情のうたで、大成功を収めたのである。

ボレーロは踊れないわけではない。
でも、本物の(!)ラテン・ダンスのファン、
たとえばキューバ人だったら、
リズムのエネルギーのないボレーロを
踊っている人々なんか軽蔑の対象である。
ただ抱き合っているだけじゃないか、ということになる。
ボレーロ=ソンとか、他のリズムと合体すれば、話は別だが。

うたとギターのトリオでボレーロを表現するということは、
ユカタン州の州都メリダを中心に発展してきた
《ユカタンのトローバ》のそのまま延長線だ。
トリオ・ロス・パンチョスの独自性は、
レキント requinto 》という名前のギターを加えて、
うただけではない、音楽の魅力をより豊かにしたことだ。
レキントという楽器は、演奏者アルフレード・
ヒルの「発明」といっていいと思う。

レキントについては別記事があります。「レキント・ギター」

キューバで生まれた最初のボレーロでは、
ギター演奏が、うたと同じくらいの比重をもっていたそうだ。
アルフレード・ヒルは、うたとおなじ長さの
演奏パートを付けたりはしなかった。
しかし前奏や間奏として、
レキントの華やかな音色で、美しい音楽をアピールした。
多くの場合、それらは原作にない、
ヒル自身が作曲したオリジナルだった。
単なる飾りではない、
短いけれど聴きごたえのある演奏を「聴かせ」たのだ。
こんなトリオ・ロス・パンチョスのスタイルは、
その後ボレーロ表現の規範・定型になってしまった。
ボレーロを全ラテンアメリカの共有財産にしたのは、
トリオ・ロス・パンチョスだったのだ。

ボレーロの女性作曲家をご紹介しようと思って書きはじめたのに、
前置きがこんなに長くなってしまいました。すみません。
息抜きに、ペドロ・インファンテが、スーパー・スターになった
1948年の映画を見てください。これはメキシコ映画史上もっとも有名な1シーンで、
今日でもプロ・アマのコミック劇団がそっくりに再現して観客を喜ばせています。
うただけでなく、口笛によるセリフを翻訳するのが受けたんでしょうね。
しかし、ペドロ・インファンテの最高のヒット曲になりました。
作曲は、たくさんの映画で音楽監督をつとめたマヌエール・エスペローン
Manuel Esperón (México D.F. 1911)
作詞は脚本家でコメディアン(ここにも出演)のペドロ・デ・ウルディマーラス
Pedro de Urdimalas (Jalisco, Guadalajara 1911 - 95 México D.F.)です。
曲のタイトルは «Amorcito corazón»アモルシート・コラソーン
=かわいい恋人への呼びかけの言葉)。
ボレーロですが、打楽器やギターは入らない伴奏なので、
いわゆる「ボレーロのリズム」は聞こえません。
まだ、マリアッチのサウンドでもないですね。
なお相手役女優は、ブランカ・エステーラ・パボーン
Blanca Estela Pavón (Minatitlán, Veracruz 1926 - 49 Popocatepetl, Puebla)
この映画で人気絶頂となってほどなく飛行機墜落事故で亡くなってしまいました。
それでは画面中央の三角を左クリックしてごらんください。
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メキシコは、この後もボレーロと、その延長線上にある
バラーダ balada 》で、新しい時代のロマンティシズムの、
ラテンアメリカにおける発信地になった。
バラーダは、元来はロッカバラード調のリズムだったが、
ボレーロのリズムを付けることもできる。
この新ロマン主義(?)のクリエイターは、
作詞作曲家&ピアニスト&歌手の
アルマンド・マンサネーロ Armando Manzanero
(Mérida, Yucatán 1935) だ。
1950年代からボレーロとして知られていたが、
60年代なかばに、バラーダの «Adoro»
アドーロ=わたしは深く愛す)などで、
世界的規模のヒットを出した。
無国籍のうたのように思えるかもしれないが、
マンサネーロ自身は、故郷ユカタンの
ロマンティックな空気が、うたの魂に入りこんでいると言う。

……また時代が流れて、マンサネーロも古くなったかなという時期、
90年代の初めに、さっきボレーロ・
ランチェーロのところでちょっと名前が出た
ルイス・ミゲールが、古いボレーロや
マンサネーロの曲をうたって大ブレークした。
彼は少年時代からスーパー・アイドルだったが、
時代を超えたロマンティシズムのリヴァイヴァルで、
スペイン語世界の最高の巨匠と呼べるほどの地位を得た。
この古きロマン復活の企画・プロデュースは、アルマンド・マンサネーロ
一世を風靡、どころか、ふたつの時代をつくってしまった!
メキシコはいつもロマンティックなうたの中心地なのだ。

つづく
ムーチョ・コラソーン <中>


この記事に出てきた事項・人物について、
この付録の別記事『メキシコ男の愛と涙』でも紹介しています。
以下をクリックして、ご参照ください。
カンシオーン・ランチェーラ
ホセ・アルフレード・ヒメーネス
マヌエール・エスペローン
ルベーン・フエンテス

「うたを もっと 感じるために」

目次

© 2008 Masami Takaba



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