「峰 万里恵のページ」付録(ふろく) うたを もっと 感じるために 高場 将美


発音について――アイウエオ



峰 万里恵さんは、ルドルフ・シュタイナー
Rudolf Steiner(Kraljevec 1861-1925 Dornach)という人の
本をたくさんもっていて、時間を見つけてはチビチビと読んでいる。
シュタイナーさんは、現クロアチアの生まれで、ウィーンやベルリンで活動し、
スイスで亡くなった。神秘学者で、自然科学と精神科学を統合した
《人智学》というものをとなえた人とのこと。
著書はどれもすばらしいようだが、厚くて、内容が重く、
わたしには読む気力がない。そこで万里恵さんが読んだところを、
ときどき解説してもらって、感心している。
このあいだ聞いたシュタイナーさんの教えをご紹介しよう。
といっても、万里恵さんが日本語訳で読んで、話してくれるのを、
わたしも自分なりに聞いて感心しているわけなので、
原典から微妙にズレているかもしれない。
とにかく、こういう話。――
「人間というものを知り、さまざまな文化を理解するには、
民俗的な歌を習うのがたいへんによいことだ。
そのさい、現地の人の発音をそっくりそのまま真似することが
たいせつだ。その音(ひびき)に、民族の魂がそのまま入っているのだから」
言霊(ことだま)は、発音にも宿っているという意味だな、とわたしは思った。

むずかしい話はさておいても、発音のひびきをとらえることは、
うたう人はもちろんだが、聴くだけの人にも、とても大事だ。
より深く「うたを 感じ」、より大きな魅力を味わえるわけだから。
ただし、そっくりそのまま真似ること、
正確にひびきを感じ取ることは、なかなかむずかしい。
なぜかというと、わたしたちの耳はふだんの環境に慣れ、
聞こえる音を、自分が話すとき使っている音に当てはめてしまうからだ。
楽器でいうと、たとえばナマの交響楽団の複雑で豊かなひびきを、
ぜんぶ iPod 音質に変換して聴いてしまうわけだ。
実用上は、これでもなんの問題もない。
スペイン語やポルトガル語をカタカナに移し、それを読んでも
日常会話よりずっと高度な意思の疎通もできる。
部分的に注意をはらえば、カタカナ原稿で演説だってできるだろう。
iPod でも、かなりじゅうぶんに音楽は楽しめるし、
ナマの音を知っていれば、無意識に想像(?)でおぎなって、
シンフォニーも感じることができる。
でもここでは、うたを もっと 感じていただくために、日本語の耳で聞くと
感じそこなってしまう、スペイン語とポルトガル語のひびきについて
書いていきたい。そのさい、本末転倒かもしれないが、文字を挙げて
その文字の発音法をご紹介することにする。

まず、日本語の「アイウエオ」、
スペイン語とポルトガル語では “A, E, I, O, U” から。
――こういう音を母音(ぼいん、ぼおん)と呼ぶ。
「カ」という音をローマ字で “ka” と書きますね。
その “k” のような音が子音(しいん、しおん)“a” が母音です。
研究家以外はこんな用語を覚える必要はないが、
もうみなさん知っていらっしゃるでしょう。
では、スペイン語とポルトガル語の母音について。

*先に、別記事「カタカナ表記」をお読みいただければさいわいです。

§ A

日本語で、ごくふつうに軽く「馬鹿(バカ)」と言ってみてください。
baka の最初の «a» の音は口が開いており、ふたつめの «a» は、
ひびきが口の中にいて、出てこないような感じだ。
どちらも、おなじ「ア」の音だが、明暗の度合いが違う。
その中間のような音もあるだろう。
ただし、ひびきの明暗(口の開きかたによる)の差は、
日本語では意味を変えるまでにはいたらないので、
どの「ア」もおなじ音ということにしてある。
スペイン語やポルトガル語も、
自然に出てくる明暗の差は無視してもいいことにして、
«a» は、どれもおなじ音と便宜上は考えている。
口の開きが大きくても少なくても、意味が変わることはない。
(じつはポルトガル語では、本来は区別していたようで、
アクセント記号の付いたとき、á(より開いた音)と
â(よりこもった音)の区別は、いまも、
少なくとも文字の上では残っている)
ほとんどの人は規則なんか知らないで発音しているのだが、
自然なひびきの流れの法則みたいなものがあって、
たとえば «r» の音の前の «a» を閉ざされた音にしたら、
非常に不自然だ。美しくうたったり、話すには明暗のトーンを
使い分けないといけない。
一般的に、どんな場合も、日本語の「ア」よりは、口が上下に開かれ、
日本語より明るいひびきである。

重要な例外もある。
ポルトガルの(ブラジルではない)ポルトガル語の標準発音では、
弱く発音される «a» は非常にこもって、
ひびかないアイマイな音になる。
Amália(アマーリア)という女性名の、最初と最後の «a» が、そういう暗い音で、
真ん中の開かれた明るい音との対比・調和が美しくひびく。
この弱い «a» は、英語の a, again などの単語に出てくる «a»と同様の音だ。

ブラジルのポルトガル語では、一般に、語尾にくる強い asá は、
大きく開いた口をまた閉める感じで ais, ai のように発音される。
規則ではないらしいが、みんなそう発音している。
たとえば gás(ガス)は「ガイス」のように聞こえる。
mas(でも、しかし)と mais(もっと、より多く)は、
まったく同じ「マイス」という発音だ。
うっかりポルトガル人にこの発音をすると(意味はわかっているくせに)
「いったいどっちなんだ?」とイヤミを言われる。


§ E

スペイン語では、ほとんどの学習書で、
e の発音はひとつしかないと書いてある。
日本語の「エ」より少し開けた明るい感じの音が標準だ。
でも、歌手はもちろん、一般の会話でも
もっとこもった音、日本語の「イ」に、ほんの少し近づいた
音が聞こえる。学者や先生がそれに気が付かないはずは
ないけれど、意味は変わらないから、どうでもいいことに
したのだろう。法則も見つからないから、教科書に書けないのか?
さらに、たとえば porque amo(なぜならわたしは愛するから)の e は、
次にくる a につなげるために、弱くなって i の音に近づいたり、
まったく消されてしまうこともある。
単に弱く(でも、しっかりと存在感をもって)発音されるときもある。
カタカナにすれば「ポルケアーモ」「ポルキアーモ」「ポルカーモ」の3種と
それらの中間の響きがありうる。

*下の「2重母音」の項もごらんください。

ポルトガル語では、e の、より開けた音と、
よりこもった音が厳密に区別されている。
(実際の発音は、地域や個人差で、どちらでもいいようなところもあるが)
記号では é が開かれた音、ê がより閉ざされた音だ。
ただし、これらの記号は、変則アクセントのときしか付かないので、
ふつうは字を見ても、どちらに発音するかわからない。
(わりあい近年まで、閉ざされたほうにだけ記号を付けていたが、
いまは付かないほうが正書法になった)

わたしが50年近い前に買った、当時最高水準の、英語のポルトガル語入門書
(ケンブリッジ大学の講師が書いている)には、e の発音が、
14の項目に分けて説明してあって、ほんとにメゲた。
そんなに変化があったら、法則とは呼べない。
しかも、ファドのレコードを聴いたら、
そこに書いてない発音もあった!

わたしが、これまで聴いてきて学習したことを、ごく簡単に書いておこう。
まず、ポルトガルでもブラジルでも、「そして」という意味の «e» は、
日本語の、強くない「イ」と発音される。
「もしも」という意味の «se» は「スィ」と発音される
(これらは規則ではない。最大公約数みたいなもの)。
em, en などが単語の最初にあって弱い(アクセントがない)ときも同様
(「イン」と「エン」のどちらともいえないときも多いが)。
例:Vou embora.(わたしは出てゆく)ヴォウ・インボーラ。
その他の場合も、似たようなことがある。
例:espada(剣)イス(シュ)パーダ。

ポルトガルの標準発音では、より閉ざされて、強い(アクセントのある)
e および ei(同じひびきとみなされている)は、
それほど開けず丸みをおびた感じの a に、弱い i をしたがえて発音される。
例:o Tejo(テジョ河)ウ・タイジュ。
primeiro(最初の)プリマイル、peito(胸)パイトゥ。
その場の成り行きで(?)em にも、似た現象が起こることがある。
例:alguém(だれか)アウガ

単語の最後などの弱い e の音は、
ポルトガルでは「ア」とも「オ」ともとれるような、
あいまいな、こもった音になるか、
場合によってはひびきにならず消えてしまう。
この音を、どうカタカナに書くか、議論の分かれるところ。
どう書いても、もとの音があらわせないところが困る
(別記事「カタカナ表記」をお読みください)。
フランス語などの同様の音を、カタカナ化してきた伝統では、
オ段かウ段の文字を使うのがふつうだ。
例:saudade(翻訳不能)サウダード。nome(名前)ノーム。
ブラジルのポルトガル語では、この音は、ゆるんだ、弱めの i になる
(ブラジル南部や北東部では、弱い「エ」のままが一般的のようだ)。
日本語のふつうの「イ」は正にその音なので、なんの問題もない。
saudade サウダーヂ(またはジ、ディ)、nome ノーミ。


§ I

スペイン語でも、ポルトガル語でも、カタカナに移せば「イ」だが、
くちびるの両脇を外側に引いて、
しっかり緊張させて発音される。
弱く発音されるときでも、日本語よりずっと強い。
ただし日本語でも、関西地方(とくに京都?)などの i の発音は
外国語なみにしっかりしていることがあるようだ。


§ O

スペイン語では、開けた音と、こもった音の区別はないことになっている。
実際にはあるが、どう発音しても意味がわかるので、
そのときの流れで、開けても、こもっても、いいのだろう。
日本語の「オ」と同じでもいいのだろうが、
一般的に唇をあまり突き出さずに丸い形にして、
日本語より開けた音である。
例:todo(すべて)トード=「トー」は、丸く強く、音が外に出てくるが、
「ド」は口の中にひびいたていどに弱く発音される。

ポルトガル語では、開けた音は ó と書き、
わたしたちには、開けた「ア」に近づいて聞こえる。
より閉ざされる音は ô と書き、
日本語の「ウ」に少し近寄って聞こえる。
ただしこれらの記号は変則アクセントのときだけ付くので、
ふつうは字を見ただけでは、どちらに発音していいか
わからない。比較的近年までは、閉ざされる音にだけ
記号をつけていたが、いまは付けないのが正書法になった。
わたしがいまだに、聴き取り・発音に苦労するのは
avó(祖母)と
avô(祖父)の区別だ。
ネイティヴの人だって発音し分けるのに気を使って、
おばあさんのときは、唇の円を大きくする感じで
「アヴォア」と聞こえる。
おじいさんのときは、発音したあと、さらに閉ざす感じで、「アヴォウ」と聞こえる。

ポルトガルの標準語では、そしてブラジルでもほとんどの場合、
弱い o(定冠詞もそうだ)の音は、日本語の「ウ」に非常に近く、
ぼんやり発音される。 例:o amigo(その友だち)ウ・アミーグ。

ポルトガル語では、ouô は同じ音とみなすと教えられる。
日本語で「ありがとう」と書いても、「アリガトー」と発音するのと同じだという。
でも実際には同じ発音をされていない場合が多い。
たとえば、Mouraria(リスボンの地区名)を、
「モーラリア」とか「モーラリーア」とかカタカナ表記してはいけないと思う。
わたしは「モウラリーア」と書くことにした
(「リ」が、アクセントのある、つまり強く発音される音)。

ブラジルのポルトガル語では、語尾の、強く発音される -os(z) は、
弱い「イ」を付けて発音されるのが、標準のようだ。
arroz(米、飯、稲)アホーイス。voz(声)ヴォイス。

この記事の趣旨とは無関係ともいえるが、ひとつ困ったことがある。
ポルトガルでは ó で発音しなければいけないのに、
ブラジルでは ô が正しいということばが圧倒的に多いのだ。
たいへん多い人名 アントーニオ は、
ポルトガルでは António と発音・表記され、ブラジルでは Antônio
文字に書くとき非常に困る。超有名な作曲家
アントニオ・カルロス・ジョビン
ほとんどつねに、記号を付けないで Antonio Carlos Jobim と表記されている。
特別待遇??? それともブラジルでは、
人名は記号を付けないでいいことになっているのか?


§ U

スペイン語でも、ポルトガル語でも、カタカナに移せば「ウ」だが、
くちびるをとがらせるように突き出して発音される。
弱く発音されるときでも、日本語よりずっと強い。
日本語の「ウ」は、「オ」に近づいたような、口の中に残ったあいまいなひびきである。
日本語の名前などをハングル文字に移したのを見ると、
正しい(笑)「ウ」の音ではなくて、ぼやけた「ウのような」音の文字にしてある。
ただし日本語でも、関西地方(とくに京都?)などの u の発音は
外国語なみにしっかりしていることがあるようだ。

なお、ブラジルのポルトガル語では、語尾の、強く発音される -us(z) は、
弱い「イ」を付けて発音されるのが、標準のようだ。
luz(光)ルーイス。cruz(十字架、×印)クルーイス。

本題とは関係ないが、日本人は、外国語を発音するとき
本来はあってはいけない u の音を入れてしまうことが多い。
それが語尾のときは、ひびきが弱いので、問題は少ない。
でも、ことばの中間だと、たとえば flamencofulamenkofrío(寒い)を furio
のように発音すると、まず話は通じない。
これらは「ファラメンコ」「フィリーオ」のように、あとで出てくる母音と
同じものを先の子音にもつけると、日本式発音でも、けっこう通じる。
そして、こんな発音法は、スペイン語でことばをていねいに語るとき、
あるいは歌唱技術のひとつとして認められている。
たくさん例があると思うが、ウルグアイの天才タンゴ歌手グスターボ・ノチェッティ
Gustavo Nocetti (Montevideo 1959.11.6 - 2002.12.30) の録音を、
機会があったら聴いて、そういう発音法の美しさ
(すべての場合にそうするわけではない)を味わっていただきたい。
余談だが、ノチェッティは、深夜に自分で運転してスピードの出しすぎで
事故死してしまった。明け方に亡くなり、
その日の国会で1分間の黙祷が捧げられた、大アーティストだった。

日本式に u を入れるのに似た
(ひびきが少し違う)発音も、いなかくさい感じだが、ある。
ブラジルの北東部では、標準語なら flor(花)なのに、
fulô と書かれる発音がある
(語尾の r が消滅)。
さっきたまたま聴いていたメキシコのカンシオーン・
ランチェーラの女性歌手アマーリア・メンドーサ
Amalia Mendoza (Huetamo, Michoacán 1923 - 2001 México, D.F.) は、
Pobre del pobre(哀れなのは、びんぼうな人間)を
Pobure del pobure のように発音して、
なんとも複雑な見事なニュアンスを出していた
(これも、いつもそう発音するわけではない)。


§ 二重母音

スペイン語とポルトガル語では、
ふたつの母音がつながったとき、一般的に言って、日本語などより
それぞれの母音の存在感が強い。
「二重」といっても、ほとんど重なっていない。
聞き逃しやすいが、並んだ母音は両方ともハッキリしている。
でも、片方の母音は弱まる、そのバランスの美しさを感じてください。
スペイン語でたいへん多い男性の名前 Juan のカタカナ表記は
「ファン」「フアン」「ホアン」「ホワン」と各種あり、
どれも間違いとはいえない。ただし
「ファン」は、fan と混同されるのでよくないと思う。
でもけっこう多く使われている表記だ。
わたしはこのごろは「フワン」とすることに決めた。
「フ」の母音 u がしっかり残って、
次の「ア」を wa に近くしていることを
示したいので、そうした。
こうなると「ウヰスキー」「ブヱノスアイレス」「クヲーター」などの
書きかたを復活させてほしくなる。
「スウィング」と書くより「スヰング」のほうが字の節約になっていいんじゃない?

以上のことと逆に、2重母音の弱いほうを
まったく飲みこんでしまう発音もある。
(これはスペイン語の話。ポルトガル語はもともと2重母音は少ない。
スペイン語でふたつの母音にされる音を、割らないで
ひとつの母音にしているほうが多い)
それが目立つのは、スペインのアンダルシーア地方や、
そこからの移民の影響といわれる(それだけではないと、わたしは思うが)
キューバなどさまざまの地域だ。
よく使うことばほど省略が激しい。たとえば
¡Muy bien!(ムイ・ビエン=たいへんよろしい)は、ほとんど
「ムーベーン」と聞こえる。

これとまた別の話になるが、ひとつの単語の中にある2重母音ではなく、
たまたまふたつの単語がつながって出てきて、
前の単語の最後の母音と、次の単語の最初の音が2重母音になることがある。
詩作の上では(ポピュラー曲の作詞でも)ほとんどの場合、
2重母音は、つながってひとつの音と考える
(作者のつごうで――詩句の寸法を合わせるために――
決めてよい)。
それをうたうとき、意味やひびきの上から重要でない音は弱くすること、
まったく消してしまうこともある。
これは歌い手の考えで(常識的に考えないといけないが)どのようにもなる、
ことばの流れをよくするための手段である。
日常のおしゃべりでも、自然にそうなることはあるが、
詩の朗読や歌では、あるていど意識的にそうする。
いくつか例を挙げよう。
mi alma(わたしの魂)では、i の音は、
ふつうならくちびるをしっかり横一文字にするのを、
ゆるめて、日本語の「イ」のような、閉じた e に近い音になる。
¿Dónde está?(どこにいる?、どこにある?)の、ふたつ
つながった e の最初の音は非常に弱く、ときには発音されていないのに
存在が(?)聞こえる高度な発音技術でうたわれる。
ただひとつの e にすることもあり、
省略することが美学であるフラメンコなどでは、
「ドンデ(ッ)ター」といった感じの発音になる。
vida oscura(暗い人生)だったら、多くの場合は a がひびきが弱く、
ときには聞こえなくなるが、逆に o が消えてもおかしくない。
どちらのことばも意味の重さは同じで、
どちらの母音も強いアクセントを必要としないからだ。
このへんは歌い手の感性というより、その場のなりゆきで決まる。

詩の寸法の規則で、またそれにしたがっているメロディの上からも
2重母音(ひとつの音と考える)でなければいけないところを、
ふたつの母音にはっきり分けてうたうことがある。
ことばの意味を確実に表現したい意識からくるのだろう。
いい歌手はみんな、曲によって、そういうことをやる。
ふつうは必要ないことだが、歌詞とメロディのかねあいで、
意味があいまいになりやすいときがあるのだ。
特殊な例では、タンゴ歌手 ロベルト・ゴジェネーチェ
Roberto Goyeneche (Buenos Aires 1926 - 94) は、
2重母音を決してひとつの音のようにしないで、
つねにふたつの独立した母音としてうたった。
それでも歌詞の流れをこわさないためには、
非常に綿密な研究が必要だ。彼自身は「文法」と呼んでいたが、
スペイン語の発音などについての、かなり独自な理論をうちたて、
みずから実践していたのである。


§ 鼻母音

ポルトガル語では、鼻に抜いてひびかせる母音がある。
文字の上にを付けてあらわすが、この
筆記体の n という字を略した記号だ。

(スペイン語のは、y の略号)

鼻母音の前後にほかの母音がくっついていたら、
空気の流れ道が変わらないので、前後の母音も自然に鼻母音になる。
でも、ぜんぶの文字に記号をつけたら、かえって読みにくく、めんどくさいので、
便宜上ひとつにだけをつけておく。たとえば coração(心臓、こころ)
と書いてあるが、ほんとうは coraçãõ と書くべきなのである。
このことばのカタカナ表記には「コラサン」「コラソン」「コラサゥン」など各種ある。
実際にも、人により、社会階層(?)により、そういうカタカナ表記に近い
発音がされている(鼻に息を抜くのをサボる、その度合いが違う)。
わたしは「コラサォン」と書くことにした。
でもほんとうは「コラサ」と書くのが、いちばん標準発音に近い。

なお、動詞の過去形の語尾の am という表記は
ão を便宜上簡略化したものらしく、
ãõ と発音する。
ême の鼻音ふたつ(ふたつめは弱い)で発音する。
さらに、ただ1語だけ、文字の上での例外がある。
muito(たくさん、とても)と書いてあるけれど、
かなり昔は i の上に n を書いていた。でも、
あまりにもよく使うことばに、いちいちを付けるのがめんどうなので、
だれでもわかっていることにして、省略したほうが
正しいことに決めてしまったらしい。
発音は、昔もいまも「ムトゥ」といった感じである。


§ うたいだしの母音

ジャンルにより、曲により、あるいは歌い手の美学によっては、
母音でうたいはじめるのを、なるべく避けようとするうたいかたがある。
母音というのは、発音器官に邪魔されずスーッと自然に出てくる音
――やわらかくなめらかに出てくるからいいはずだが、
うたいだしのインパクトというか、立ち上がりの存在感に欠ける。
最初の訴えかけを重視し、
第一声に命を賭ける(笑)フラメンコでは、
ノドなど発音器官を極度に、不自然なまでに緊張させて
「ア〜ィ」なんてうたいだす。
逆に、口を閉ざして声を留めることからはじめる
「ムア〜」という感じのうたいだしもある。
歌詞のフレーズの最初が母音のときは、不必要な
y(ジャジジュジェジョの音になる)や
qu'(カキクケコの音)を入れる。

ファドのアマーリア・ロドリーゲス
Amália Rodrigues (Lisboa 1920 - 99) さんは、
だれにも習わずに、非常に高度な声楽技術の体系を創造した。
初期の録音を聴くと、うたいだしが母音のときは
n の音をはじめにつけて、母音をまず鼻にこもらせ、粘った感じだった。
やがて研究して、口の中にまず満たす感じで、l の音ではじめるようになった
m の音を使った録音もある)。
アマリアさんなどの場合、「研究」なんかしないのだろう。
自然にやっていて、あるとき自然に発見するのだろうが、
もっと後には、べつの音をつけなくても母音だけでインパクトを出す
発声(どうやっているのか、わたしには見当もつかない)も使った。
すごいなぁ、秘密の筋肉があるんだな、本人も正確には知らないはず
――と、わたしは感心するばかりだが、
べつの音が付いていた時期は、意味が違ってくるときがあり、
むかしの録音の音質の不十分さ(おもに経年による劣化)もあって、聴き取りに苦労した。
母音のすべてを感じることは、ほんとうにむずかしい。
そして、
ふつうの人に感じてもらえないところにまで、
意識的にか、無意識にか、母音の出しかたに気を配ることで、
歌い手の表現が大きく、あるいは深くなってくるのだ。


「うたを もっと 感じるために」

目次

© 2008 Masami Takaba


tangamente
峰万里恵のページ 入り口
 
峰万里恵 活動のおしらせ
inserted by FC2 system inserted by FC2 system